横綱朝青龍が,疲労骨折をしたと言って巡業を休み,モンゴルに帰国してサッカーに興じていた問題.色々な意見がありますが大筋では朝青龍を非難する世論が強いので,このまま行くと廃業にまで追い込まれてしまうかもしれません.
疲労骨折で静養するはずが飛び入りでサッカーの試合に出場したことは,ずる休みと取られても仕方のないことで,これは有名人であり相撲界のスターである横綱としては,軽率すぎる行動だったことに疑問の余地はありません.従って,日本相撲協会の二場所出場停止という処分も,重いなぁとは思うものの,程度問題であって,いずれにせよ何らかの懲罰は必要です.この懲罰に朝青龍がどの程度ショックを受け反省しているのかは知る由もありません.
しかし,その非難の中味が横綱としての品格や相撲道の尊厳を守らないというふうに語られることが多いことには,違和感を感じざるを得ません.これには日ごろの朝青龍の土俵上での礼儀・作法のふてぶてしさを快く思わない人たちからの鬱憤がこめられているわけですが,それに悪乗りして横綱の品格や相撲道の尊厳にまで飛躍すると,問題の本質を外してしまいます.
なぜならば相撲の本質は興行だからです.力自慢の男たちが,ルールがあり勝ち負けのはっきりしたゲームを行うことで見物人から金をもらう,これが相撲のルーツだったはずです.金が回らなければ興行のシステムが成り立たず,そもそも相撲協会など存在しえません.余談ですが,興行システムが江戸時代以来ずっと健全で磐石だったとは言えません.長い間,力士の待遇は劣悪で,そのために八百長なども横行していたようです.力士が相撲を取ることで食えるようになったのは昭和に入ってから,という記述が Wikipedia の大相撲にあるくらいです.
興行と言うと,それは単なる金儲けではないか,相撲の伝統や精神性はどうでも良いのかと叱られそうですが,相撲の伝統や精神性に思いを入れる人たちの心をくすぐり,自らの価値観と相撲とを重ね合わせて熱心なファンであり続け,気持ちよく金を払ってくれるようにすることを含めてが興行です.経営と言ったほうが良いかもしれません.
興行であることから,人気力士は必須の要素となります.その頂点が横綱であるわけですが,興行の元締めである相撲協会にとっては,常に適当な数の人気力士が各階級ごとに必要です.下位の階級には若くて将来性がありルックスも良い力士が10人は欲しい.大関クラスにも5,6人の実力派が欲しいし,横綱には王者としての強さと個性を持った力士が2,3人は欲しいところです.横綱は強いだけではだめで,何らかの個性が必要です.全員が聖人君子である必要はありません.中には悪役がいてもいいではありませんか.人材はポートフォリオとして管理できれば良いのです.そして力士の出世レースに観客をハラハラさせるのです.これがかなえば,毎場所満員御礼は間違い無し.興行の収益性は大変高いものになります.桝席の商権をお茶屋から取り返すことも可能になるでしょう.
ところが,現在の相撲界にはそれに相応しい人材が不足しているのは誰の目にも明らかです.贔屓にしたくなるほどの人気力士がいないから観客数は伸び悩みます.大相撲全体の人気も落ち,相撲を目指す子供たちの数も減り,従って人材不足に拍車がかかると言う悪循環がここ30年ほど続いているのではないでしょうか?人材不足で外国人にまで力士の対象を拡大したのですが,それは試行錯誤の域を出ず,必ずしもうまくいっていません.伝統・しきたり・精神性と興行性のバランスを取るのに苦労しているのが実情です.前者に固執すると,伝統的価値観を重視する保守層には受けるでしょうが,人材不足で興行成績は低落し相撲界の衰退は明らかです.後者を重視しすぎると,他の格闘技との差別化が難しくなり,相撲が相撲であることの付加価値によるプレミアムを取ることが出来なくなり,これまた相撲界は衰退します.ほど良いバランスが重要なのです.
今回の朝青龍の問題も,そのバランス取りの難しさの一例と見るのが良いのではないでしょうか?朝青龍は強くかつ個性の強い横綱です.しかし,横綱や大関にもっと多様性に富む人材がいて初めて彼の存在も際立つはずです.それがいないところが今の相撲界の悲劇です.処罰のような表面的な問題に論争のエネルギーを使うのではなく,いかにして人材を集め育成するかを,ファンも含めてスポーツジャーナリズム全体で議論していくべきだと思います.
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