第n感覚
人間の基本的な感覚には5種類(実際には7種類以上)あって,それを五感というのは誰しも知っていることです.これは,人間の体に多種類の物理的・化学的な刺激を感じる感覚器官(センサ)があって,しかもこのセンサからの入力信号を適切に処理して脳の中枢に伝えることが出来る能力を意味しています.
基本的な五感に対して,高次感覚と呼ばれる副次的な感覚があります.その代表的なものが視覚に対する立体視です.私なりの理解では,高次感覚は基本的な五感の刺激が,脳の中で処理されることにより新たに生み出される情報を,感覚として受容することです.眼の網膜に結像された光の刺激は,網膜背後の神経回路網で輪郭抽出や動き検出などの低次の画像処理を行われた後,脳に送られますが,左右一対の眼からの信号が,脳の中でさらに処理されることにより遠近感の情報が生み出され,これを脳はある種の感覚として受容します.
これ以外に,共感覚という奇妙なものもあって,例えば高い声を "黄色い声" と言うように,ある種の感覚が他の種類の感覚をも生じさせることがあるのですが,これについてはここでは扱いません.
私は,高次感覚はこれからも技術の進歩と共に開発される可能性があるのではないか,ということを長年考えてきました.そのきっかけは,物理現象のコンピュータ・シミュレーション結果をコンピュータ・グラフィックスで可視化するときの不便さを改善することを考えていたときに閃いたものです.
流体力学のコンピュータ・シミュレーションが80年代に飛躍的に進歩し,90年代にはそれが普及期に入りました.それと共に,シミュレーション結果の膨大な情報量をどのように可視化するのかということが大問題になりました.特に,3次元空間における物理量を,2次元のディスプレイ画面や印刷物上でどのように可視化すればよいのかについてはいまだ最適解は無く,目的に応じて様々な方法を使い分けています.
一つの手法として,Volume rendering という手法が開発されました.これは3次元空間の各点で値(スカラーでもベクトルでもよい)を持つ物理量を,各点に物理量に応じた色やその濃淡を与え,それによって構成された仮想的な立体物をコンピュータディスプレイ上で眺めるというものです.これによって複雑な流体現象を "何となく感覚的に" 理解できるようになりました.この手法はその後各分野に応用され,特に医療分野での画像診断に威力を発揮していることはよく知られています.
私が提案する高次感覚は,この Volume rendering を出発点にしています.可視化する物理量を色やその濃淡で表すと同時に,手に嵌めたセンサ・グローブによって触覚として感じるようにすると,どのようなことになるのでしょうか?ここでセンサ・グローブとは,コンピュータに接続された機器で,手のひらや指のあらゆる表面の接触圧力を計測してコンピュータに送ると同時に,逆にコンピュータから接触圧力を制御して,手のひらや指にあたかもそこに物体の凹凸があるかのように感じさせることができる,まだ未完成で開発中のユーザ・インターフェースです.これはもっと広い意味で "タンジブル・ユーザインターフェース (Tangible user interface)" と呼ばれるものの一種で,MIT の石井裕教授がその提唱者です.下に YouTube に投稿された Stanford University での石井教授の講義を掲載しておきます.
例えば,画面に立方体が見えているとしましょう.このとき,センサ・グローブを嵌めて,仮想空間の中に手を伸ばし,この立方体を "触る" ことができます.このとき,この立方体に "硬さ" とか,"めり込み易さ" という量を定義して,指が立方体の中に入り込むようにすることも可能です.立方体中心に近づくに従って,例えば密度が大きくなるような場合には,指が感じる硬さが増す,あるいは指が動くときに感じる粘り気が増すというようにすることができるはずです.
ここまでは従来からよく研究されてきたことですが,ここからが高次感覚の出番です.視覚で仮想空間内の立方体を見ながら,触角でその立方体を撫で回したり,内部に指を突っ込んだりしたときに,何かこれまで存在しなかった新しい感覚が生まれるはずだ,というのが私の仮説です.そう "視覚×触覚" という新しい感覚です.これは脳の中で生まれる高次の感覚で,視覚と触覚という本来別々の刺激が相互に作用し合い,脳の中でこれらが融合して出来る新しい情報を,あたかもそれが感覚であるかのように受容するものです.これはこれまでに人類が味わったことのない感覚なので,誰もが訓練なしに感じることが出来るわけではないと思います.まずはセンサ・グローブを嵌めてディスプレイの前に座り,色々なものを見ながら触るという行為を繰り返して,この感覚を開発していかなければならないでしょう.
この感覚は五感の他にたくさんの高次感覚を生み出す可能性を秘めています.それで私はこのような未開発の高次感覚を集合的に "第n感覚" と呼ぶことにしたいと思います.石井教授たちが "multimodal senses" と呼んでいるものに似ていますが,私の第n感覚が未知の高次感覚である点が相違点です.
こういうことを言い出すには分けがあります.私は子供の頃から,夢というか妄想の中で,自分の手ではない何かで物体を掴む,あるいは具象的な物体ではない抽象的なもの,例えば喜びとか悲しみを掴んでその感触を感じる,という感覚を味わってきました.私はこれを "心の手" と呼んできましたが,その心の手とは一体何だろうかと考え始めたのがきっかけです.この奇妙な感覚が上で述べた視覚×触覚の高次感覚と同じものとは考えていませんが,かなり近いものではないかと今でも思います.
この高次感覚が開発されると,私はユーザインターフェースの新たな用途が開けると信じています.上記の医療分野の画像診断が最も近い応用先でしょうが,これ以外にも様々な分野で,ひょっとすると抽象的な概念とのインターフェースが開けたりすれば,大変面白いと思います.
これは単なる仮説であり,ひょっとすると単なるたわごとに終わってしまうかもしれませんし,私自身はこのような分野を切り拓く研究を行えるわけでもありません.それでも,誰かがこのようなことにヒントを受けて,研究を始めてくれないかなぁと思ってこのメモを書いた次第です.
参考として,神経科学,システム神経科学,認知神経科学,MIT の Tangible Bits などへのリンクを書いておきます.
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