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2010/03/21

分類と人間の知性の複雑で深い関係

系統樹思考の世界(講談社現代新書) - 三中 信宏(著)

分類思考の世界(講談社現代新書) - 三中 信宏(著)

同じ著者によるこれら二冊の本の内容は密接に絡み合っていますが,いずれも個性の強い著者の思いが込められ,解説というよりは思いを吐露した本です.著者は生物分類学を専門とする研究者のようですが,分類というものが実は人間の本性に深く根差した行為であり,それが進化論と結びつくと,血縁や写本や字体の系統と同じく,進化の系統という生物系統学という枠組みで理解することができる,ということをまず述べます.

著者によれば,系統学はアブダクション (abduction) という一種の最尤法による推定で系統樹を構成していきますが,これはどうせ過去の真実を100%確実に知ることはできないという開き直りに基づくもので,その論理は非常に明快です.一方,分類学はパターン認識であって,しかも,生物の種,あるいはもっと一般的には分類の単位となる "類" が実在するかどうかが自明ではないため,これまでの人類の歴史の中でも様々な論争を招いて,いまだにすっきりとした体系が構築されていない,ということをが述べられます.

そして特に二冊目の分類学に関する本では,中世スコラ哲学以来の普遍論争を詳しく解説することなく,読者はこの知識を既に持っているという前提で,分類という知的行為の根本的な困難に関する著者の悩みが延々と,あまり発展もなく述べられます.

従って,私にとっては二冊目の本は非常に退屈でした.著者は恐ろしいくらい多読な人,それも非常に幅広い教養を身につけている人なので,分類や系統に関する造詣は非常に深いのですが,しかし問題の核心の周りをぐるぐる回っているだけという印象を受けました.類,すなわち種は実在しない,というのが著者の一応の態度らしいのですが,種の実在を直感的に認めてしまう人間の本性を反映した本質主義の擁護も行っており,なかなか話が閉じずに問題の周りをうろうろするばかりです.現実を素直に観察すればこのような態度を取らざるを得ないということは理解できても,主張としては大変不明瞭です.

私は学生時代の研究テーマに関連して普遍論争のことは知っていました.しかもそれは渡辺慧の "認識とパタン (1978年) (岩波新書)" という本に出てくる有名な "みにくいあひるの子の定理" を学ぶ過程で知ったものです.従って,類を形式的に定義することは論理的に不可能であることはわかっているつもりです.この定理は著者の二冊目の本の参考文献にもあげられていますが,この定理の重要な帰結である "人間は述語を平等には扱わず,自らの価値体系による重み付けを行っている" ことに著者は言及していません.これこそが自然分類や本質主義と最も密接に結び付く鍵だと私は考えています.

そもそも私が分類学というものに興味を持つようになったのは,このブログでも紹介した "辞書参照型ソーティングフィルタ" である Refsort/Ruby と,そこで使用する辞書ファイルの作成を通してです.特に鳥類辞書を作成において,遺伝子解析に基づく新しい分類体系が提案された例に遭遇したこと,また亜種が種に格上げされたり,種が亜種に格下げされたりという事例に多数遭遇したことによっています.分類体系というものはずいぶんと相対的で可塑性があるものなのだなぁ,という素朴な印象を持ちました.それを突き詰めていくと,種は実在するのか?という普遍論争にたどり着くことは容易です.遺伝子のわずかな変異はありふれたことですが,どの遺伝子がどこまでの分量だけ変異すれば異なる種と言えるのか?変異は連続的か?離散的か?などなどきりがなく,最後は普遍論争という類そのものの実在にまで議論は行ってしまいます.

もう一つ,学生時代の研究テーマに関連し,かつ渡辺慧の上述の本にも説明があるのですが,人間が物事を類に分類するときには,実は二つの段階を経ていることがわかります.すなわち,類そのものを定義する第一段階 (Cognition) と,事物をどの類に入れるのかを判定する第二段階 (Re-cognition) があります.この区別をすることは大変重要です.自然分類や本質主義の議論をするときには,この区別は避けられないと思います.この区別をすることで,著者の議論ももう少し整理できるのではないかと期待しています.蛇足ながらこれら二つのプロセスには,価値判断による相互フィードバックがあることも忘れてはいけません.人間の脳の発達過程では,この相互フィードバックが頻繁に行われているはずです.

生物は生得的に持っている類もありますが,後天的に獲得する類もまた多いと考えられます.卑近な例でいうと,が何種類の色から構成されているかは,実は民族や文化によって異なります.また Refsort/Ruby の鳥類辞書を作っていてつくづく感じたことですが,日本語では "ツバメ" と総称される鳥の仲間を,英語ではさらに細分して "Swallow ツバメ","Martin イワツバメ","Swift アマツバメ" などと異なる名前を割り当てて明確に区別しています."カラス" についても,"Crow カラス" と,"Raven ワタリガラス" などの明確な区別があります.これらは,人間が後天的に自らの価値基準に基づいて物事を分類しているよい例になっています.

長いレビューになってしまいましたがもう少し.著者は,自ら認める通り,一冊目の体系学に関しては極めて明快.しかし私はそれほど明快ではありません.だって,鳥類分類体系が系統樹を含めてがらりと変わったり,変わることに対する抵抗がこれまたすごいという現状を目の当たりにすると,系統樹を推定するアブダクションという推論手段も,人間が長年慣れ親しんだものを否定できるほど強いものかどうか,私には十分な確信がありません.アブダクションにおける評価関数は厳密には任意のはずなので,恣意的な結論だって導き出せるのでは?と思ってしまいます.

二冊目に対しては,私は著者よりは悩みは少なく,分類とはしょせんは人間という生物の適応行動の一つと割り切っているところが大きいのかな?これを哲学のレベルで論じることは,抜け出せない泥沼に入り込みそうで,そのたびに "みにくいあひるの子の定理" を思い出して近づかないようにしています.

分類や認識という人間の根本的な能力に関して,ギリシア時代から延々と続いている論争をある程度体系化して学んでみたいという方にお勧めします.ただし,渡辺慧さんの認識とパタンも必読だということは忘れないでください.絶版なので古書でしか読めませんが.

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受信: 2010/05/03 14:03

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