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2010/06/06

ディック・フランシス再起の一冊

再起(ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-41) - ディック・フランシス(著),北野 寿美枝(訳)

イギリスのミステリー作家として世界中にファンが多いディック・フランシスが今年2月に亡くなったことはこのブログでもお伝えしたとおりですが,このブログでもわずかながら晩年の数作品を扱ってきました(*1 *2 *3).著者は,最愛の妻メアリーに先立たれた後,いったんは執筆活動を停止したのですが,数年を経て復活.息子の手を借りながら新しい作品を生み出すようになりました.しかし日本のファンにとってショックだったのは,ちょうど復活のころに名翻訳家 "菊地光" を喪ったことです.

本作は,著者の復活後の第一作,そして日本の読者にとっては菊地光亡き後で新しい翻訳者 "北野寿美枝" を迎えての第一作,そして,主人公は競馬シリーズでこれまで登場回数の最も多いわれらが "シッド・ハレー (Sid Halley)" という,いろいろな意味で長年のファンには興味深い作品です.

ストーリーの詳細はネタばらしになるので控えますが,再起の作品にふさわしく,競馬シリーズの原点回帰にふさわしい作品です.主人公がシッド・ハレーという競馬専門の調査員ということもあって,今回は競馬界の中だけが舞台.美術家や料理人やガラス職人が主人公ではありません.話の中身も競馬の不正にかかわること.競馬場もチェルトナムが主な舞台.

これまでのシッド・ハレーと異なるのは,前妻とはすでに離婚していて,若いオランダ人の女性と同棲していること.まあなんと羨ましい限りですが,彼女が事件に巻き込まれ,主人公の苦悩は深まります.また,前妻の父親,主人公にとってはかつての義父とは相変わらず親密な交際を続けていて,今回は大いに助けてくれるという設定.狭い人間関係なのですが,その現実にはありえないような展開が大変興味深い.

悪役陣には,今回もお決まりの凶悪な主役がいるのですが,脇役はちょっと変わった小物が多く,中にはほとんど登場せずに舞台裏に押しやられたままの悪役もいて,ストーリー展開に甘さが残る点は残念.まあしかし,全体としてはディック・フランシスのこれまでの水準から大きく外れることのない作品で,読者は質の高いミステリーとして安心して読み進めることができるでしょう.インターネットやグーグルなどの最新の話題もしっかり出てくるのは息子フェリックスの協力があってこそ,ということも考慮に入れる必要があります.

さて,日本語の訳文ですが,菊地光からどう変わったかと問われれば,菊地節を踏襲した禁欲的な名訳,と言ってよいと思います.英語から日本語への翻訳というのは,言語構造も単語のカバーする概念や範囲も異なるものをどう妥協させ,かつ文学作品として読むに堪える質の日本語を作っていくかという,極めて高度で創造的な仕事なのですが,北野寿美枝は,周囲からの期待と疑念という圧力に見事に耐え,この仕事をやってのけました.

菊地光のほかに,私が好きな翻訳家には,伊藤典夫がいるのですが,このような翻訳家はもっともっと評価されて良いように思います.

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