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2011年3月

2011/03/27

今年もトサミズキが開花

我が家の庭で早春の訪れを告げるものは,このトサミズキの淡い黄色の花です.このブログでも過去毎年紹介しているのですが,開花時期は毎年ほとんど同じで,三月の中旬くらいからほころび始め,月末にかけて花穂が伸びてきます.

Springhome_mar2011042m

今年は昨年と同様大変寒い三月で,下旬に入っても毎朝の最低気温が氷点下まで下がっており,当地では真っ白に霜が降りています.そのせいか,まだまだ梅が満開の状態で,ソメイヨシノが咲くのはまだだいぶ先という感じがします.

この写真は新しいデジタル一眼レフによる試し撮りです.レンズも新調したのですが,オートフォーカスの性能が随分と上がり,十分実用的になりました.

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2011/03/14

日本の原発は設計でも運用でもなく「想定」が間違っていた

福島第一原子力発電所 (1F) で緊急事態が続いています.東北太平洋沖地震により原子炉を緊急停止するシステム (SCRAM) は働いたものの,炉心の余熱と放射性物質の崩壊熱を緊急に冷却するシステム (ECCS) のうち,特にその電源となる非常用ディーゼル発電機が津波で全て損傷し動作不能になりました.これが痛かった.注水系が動作しなかったため余熱冷却を行うことが出来ませんでした.その結果,一次冷却水の気化が進み,水の一部は分解されて水素と酸素が発生,圧力緩和のために止む無く格納容器外に放出したガスが爆発を起こしました.

これ以上の災害を防ぐために,大急ぎで運び込んだ外部の電源とポンプを使って海水を圧入して,ようやく安定させることに成功した模様です.ただし海水圧入により廃炉は決定的.これが 1F の1号炉 (1F1) と3号炉 (1F3) です.

2号炉 (1F2) もこれと同様の経緯を辿っており,炉心に冷却水がほとんどなくなり,マスコミによれば "空焚き状態" と言われていますが,これは不正確な言い方でしょう.チェルノブイリとは異なり核分裂反応は止まっているはずで,余熱の冷却ができなくて燃料棒が溶融しているという状況です.圧力が限界まで上がると,どこにもリリーフ弁が無ければ格納容器のどこかが破壊されてガスが放出されます.そうなると高濃度の放射性ガスが排出されることになります.そのためにガスを放出して圧力を下げ,海水を圧入して温度を下げようとしています.

さて,今回の事態を招いた根本的な原因は何でしょう?

まずは設計思想が甘すぎました.日本ではスリーマイル島のような過酷事故は起きないと考えられてきたそうで,幾重にもなった安全対策は軽視される傾向にあったそうです.

しかし,私は設計以前の想定が根本的に間違っていたと思います.まずは地震の規模.次いで,海岸立地につきものの波浪や津波に対する想定の甘さです.特に津波の想定が甘すぎました.想定された津波の高さはわずか5mだったそうですから,これは素人考えでも甘いだろうと考えざるを得ません.このため,非常用発電機の全てが損傷し,緊急時の頼みの綱が断ち切られたのです.想定が間違っていれば,当然設計も不十分なものとなり,運用もそれなりのレベルに低下します.

想定を誤らないようにするにはどうすればよいか?これは工学としてはなかなか難しい問題です.現象の強度と頻度の関係をどのように想定すればよいのか,明確な指導原理はありません.安全率をむやみに高くすると,設計そのものが成り立たなくなり,非常に高コストの技術となってしまいます.一方,甘い想定をすると,滅多に(設計寿命内では事実上)起きないはずの現象に実際に遭遇してしまいます.今回の地震は1,000年に一度という規模だったと言われていますが,これとてどこまで本当か疑ってかかるべきです.自然界の現象の強度と頻度の関係はべき分布に従うものが多いので,とてつもなく強い現象が,実はかなり頻繁に起こる,ということはもっと知られるべきです.

べき分布の別の言い方として,大富豪は実はかなり沢山いる,という言い方もあります.これは経済物理学の成果です.

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2011/03/13

避難所からようやく帰宅しました


東北地方を襲った史上最大級の地震
,被災された方は大変お気の毒です.特に,津波と原発の放射能災害により生活基盤を喪ったり長期の避難を強いられている方々には言葉もありません.行政の支援だけでは到底足りず,市民同士が連帯して助け合う姿勢が問われると思います.被害が激甚だった東北地方太平洋沿岸では,災害からの復旧は数年がかりになると思われますので,息の長い支援が必要になります.

さて,私も被災者の一人でした.当日と翌日の足取りを振り返ってみたいと思います.

まず,地震が起きた時には,私は茨城県南北中央よりもやや北寄りの某社事業所の会議室にいました.人が歩いても床が揺れるような安普請の工場建屋なので,当初は体重の重いやつが走っているのかと思っていたのですが,揺れが長く続き,収まるどころかどんどん強くなったので,出席者全員が机の下に避難.激しい揺れで周囲のパーティションやドアが床に倒れ込み,ガラスの破片が自分のほうへ飛散してきます.やがて照明が消え,暗い非常灯だけに.長い揺れがようやく収まったので直ちに屋外に避難.屋内は家具や書類が散乱した状態でした.

工場の広場に集合して人員点呼をしている間にも強い余震が襲ってきます.地面が激しく揺れて立っているのが難しくなり,工場の建物はぎしぎしと音を立てて揺れています.実はこの余震は本震とは異なる震源からのもの.数100kmにおよぶ長大なプレート境界のあちこちで,溜まっていた歪が次々に解放されていったのでしょう.このような余震は数週間は続くと思われます.

点呼が終わり,先遣隊が建屋の状況を確認に行って帰ってきました.いったん建屋に戻って帰宅するよう指示ができます.出張者の私たち三名はそのまま退出し,まずは駅方面に向かいます.途中,道路そのものに損傷は見られなかったのですが,民家の塀が歩道に倒れ込んでいる箇所多数.特に大谷石を積んだだけの見た目は立派な石塀はほとんどすべてが根こそぎ倒れている状態でした.コンクリートブロックの塀も,鉄筋の入り具合によっては根元から歩道に倒れ込んでいます.そういうものを避けながら,また頭上の屋根瓦や街灯などが落ちてこないか確認しながら,一時間ほどかかって駅近くにたどり着きました.

当然電車は止まっています.数日間は動かないのでは?と思われるので,今日は避難所に駆け込むしかないと決断.避難所の場所を人に聞き,その小学校の体育館に向かいます.体育館そのものも一部の窓ガラスが割れており,それが片づけられた後で入館.内部には少数のパイプ椅子があるのみでしたが,体操マットを敷いたり,ストーブ運び込まれて火が点けられたりしました.辺り一帯で電気と水道が止まっているので,非常用の小型発電機を校庭で回し,工事用の照明で薄暗く館内を照らします.またトイレは小のみ可能.水が出ないので衛生上よろしくありません.

市役所からアルファ米非常食が配布され,水を加えてもらいます.60分後に食べられるようになりました.ご飯は冷たく硬いのですが,無いよりははるかにまし.飲み物の配布は何もありませんでした.また毛布も少しずつ運び込まれて子供や老人から優先的に配布.余震が続くものの特に大きなものは無く,私たちは長く寒い夜を過ごしました.特に寒さは厳しく,毛布が不足していたため,毛布が少しずつ届くたびにそれを受け取る長い列ができていました.携帯電話は非常につながりにくく,なかなか音声通話ができませんが,何回か繰り返すうちにようやく自宅と連絡が取れました.家屋には被害は無く,水道の水圧が低い以外は生活基盤は正常と聞いて一安心します.

夜が明け,会社の同僚のうち同じ方面の者同士で歩いて行けるところまで行こうということになりました.私の自宅までは60kmほどもあるので,一日では到底無理.しかし少しでも先に行きたい,自宅近くのほうが震源から遠いので被害が少なく,電気や水道などの生活基盤も健全なはずだとの推測もあり,とにかく歩き出します.

主要国道は一応開通しており,たくさんの車が走っていますが,ところどころアスファルトにひびが入ったり段差ができたりしています.特に橋との境界部分は損傷が激しく,橋に乗る部分に対して地面の部分が沈下しているところが多く見られました.そのため,片側通行になっていたり,段差を応急補修する工事を行っていたりで,いくつかボトルネックが出来ています.信号機はほとんどが消えていて,事故が起きないのが不思議なくらい.そういうものを越えながら,先に進みます.天気は快晴,気温は出発時は氷点下で寒かったのですが,日が昇るにつれて暖かくなってきます.

しかし長時間歩くにつれ,ひざの関節が痛くなってきました.私はもともと膝痛持ちなので,このような事態は好ましくありません.国道沿いのレストランやコンビニエンスストアはほとんどすべてが閉店.開いていても水などの欲しい商品はほとんどありません.個人経営の雑貨店に残っていた缶ジュースやビスケットでおなかを満たし,足を引きずりながら歩きます.元気のある若者たちは,開いていたホームセンターで自転車を購入し,自転車でスイスイと先をめざしていきました.同じことは誰でも考え付くのですが,なかなか実行にまでは移せません.途中で車や電車に乗り換えることもできませんし.

途中,道路が低湿地を通るところで,液状化現象のひどい所を目撃.地面が沈下して車がひっくり返りそうになったりしています.やはり川や湿地の周りの低地は地盤がよくありませんね.石塀の倒壊はここでも非常に頻繁に見られ,倒れたブロック塀の上を歩かざるを得ない個所もありました.農機具の販売店の前に腰を下ろして休憩していたら,その店の人がどら焼きを差し入れてくれました.感謝.そんな感じで10数名が隊列を組んでとぼとぼと歩いていたのですが,26kmほど歩いたところで,ひざの痛みが限度を超え,私はついにギブアップ.国道脇のロードパークの公衆電話から家人に連絡し,迎えに来てもらうことにしました.家が近い二名にも声をかけて三名が脱落.残り10名弱はさらに先をめざします.

渋滞がひどく,2時間以上経ってから車が到着.それから渋滞の中を帰途につきます.片側通行や交通事故,ガソリンスタンドの給油待ちの長蛇の列などによる渋滞を乗り越えながら,ようやく夜7時30分頃に帰宅となりました.やれやれ.車の中で長時間じっとしていたのでひざの痛みは頂点に達し,車から降りて歩くことができません.手をつきながらようやく家の中に這い上がります.それでも,温かい食事とお風呂は何よりのご褒美.いまだ帰宅できない人,被災して避難所にいる方々は本当にお気の毒です.

ところが,さらに翌日の今日になって断水になってしまいました.今頃になってなぜ?困るんですけど.

さて,今回被災者になって気付いたことをいくつかあげます.

まず,携帯電話のこと.地震発生後ただちに発信規制がかかるのはやむをえませんが,メールなどのパケット通信は使えます.それで特に問題なしと思っていたのですが・・・よく考えてみたら基地局も停電しているはずで,まず非常用の蓄電池,次に非常用ディーゼル発電機で電源を確保しているはず.ディーゼル発電機の燃料が無くなったらその基地局は死にます.実は,二日目がこのような状態だったようで,携帯電話はほとんど使い物になりませんでした.非常用のバックアップ電源の稼働時間をもっと長めにとった設計にしなければ,今回のように数日間以上にわたって停電が続く場合にはライフラインの一角が崩れることになります.

同じことが信号機についても言えます.重要な交差点には,非常用ディーゼル発電機付きの信号機が置かれており,それは私たちも今回確認しながら歩いてきました.ところが,午後になるとそのような信号機も消灯しているのです.燃料が尽きたものと思われます.これももっと長めの稼働時間を確保した設計が必要ではないでしょうか?

今回,最も迅速に対応していると感じたのは道路関係です.国道事務所の車を多く見かけましたし,道路の陥没や段差などにはすべて赤色パイロンで警告がされていましたし,補修工事も着々と進んでいました.すごい!と思ったのは,このような道路管理を行う人たちのための "待機支援車" という特殊車両があること.中にはトイレやひょっとしてシャワー?,厨房などがあります.ろくに水も食べ物も持たずに歩いていた私たちから見ると大変贅沢な車両に見えたのですが,ここまであらかじめ準備されているというのは他に見当たりません.

被災者援護は,市役所などの担当課がやってくれるわけですが,発生直後から直ちに活動できるわけではありません.避難所の設営,照明や食料,毛布などの配布にはかなり長い時間がかかります.被災者はそれらを辛抱強く待つしかありません.やむを得ないと思う反面,もう少し何とかできないものだろうか?との思いもあります.命に係わるわけではないけれど,もう少しボランティア組織との連携などにより,初動体制の迅速化ができないものでしょうか?

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2011/03/06

Refsort/Ruby 2.15 Released


先月 Refsort/Ruby のアップデートをお届けしたばかり
ですが,つい最近,修正漏れに気付いたので,微修正版をリリースします.修正内容は前回と同じく,正規表現の評価回数を必要最小限にしたことです.これにより,より確実に実行速度が向上するはずです.

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