現代的に再構成された熱力学
熱力学―現代的な視点から(新物理学シリーズ) - 田崎晴明(著)
昨年 9 月にこのブログで特殊相対性理論を学びなおしたことを紹介しましたが,その記事の末尾に
次はやはり大学時代に悶々としていた熱力学を勉強しなおそうかと思っています.
と書きました.そして年が明けて今年の2月中旬から,今回紹介するこの教科書を読み始めました.
何度かつまずきながらも6月3日に演習問題を含めてすべて読了.A4 版のノート 2 冊を費やしました.結局 3 か月半程度かかって読み終えたことになります.それなりに分量の有る教科書なので,まあほどほどの速さだったと思います.やはり引退して時間がとれるということは素晴らしい.没頭して 3 時間以上数式と格闘した日もありました.
この教科書は,私が学生時代に習った(伝統的な Clausius の流儀に従った)熱力学とは構成が異なります.従来は,理想気体の状態方程式をよすがに,ときどき分子運動論などの知識も密輸入しながら,内部エネルギー,エンタルピー,エントロピー,そして Helmholtz や Gibbs の自由エネルギーと進むのが普通です.しかしこの本では最初に「等温操作」というものが定義され,そこから「最大仕事」を通していきなり熱力学第二法則と Helmholtz の自由エネルギーが公理として導入されます.最初は非常に面食らうのですが,これが実は全体の理論体系にとってキモになっていることが後でわかります.
内部エネルギーが出てくるのはその後の章で「断熱操作」を定義してからなのですが,驚くべきことに「熱」という明確な概念は最後まで出てきません.え?熱力学に熱が出てこないの?そうなのです.熱はエネルギーの一形態ではあるものの,操作できないもの,制御できないもの,明確に定義できないものとして,いわば「残差」のような扱いしかされません.あくまで便宜上の補助変数なのです.ではエントロピーはどうやって定義するのかというと,内部エネルギーと Helmholtz の自由エネルギーの差として,つまり絶対に外部に取り出せないエネルギー(を温度で割った量)として定義されます.
こんな具合に,少数の公理から極めて論理的に,理想気体に浮気をしたり統計力学から知識を密輸入したりせずに,純粋にマクロな物理学の体系として公理的に再構成された熱力学なのです.読み始めてしばらくすると,非常に美しい建築物を作っていく一つのプロジェクトに自分が参加していることに気がつきます.このような熱力学の再構成は 1990 年代末から盛んになり,今では日本人が書いた教科書だけでも 2, 3 種類あるようなので,これから少しずつ広まっていくのかもしれません.
私がこのような教科書を読み始めた理由は,学生時代に習った熱力学があまりに未消化,かつ納得できるものではなかったという事につきます.大学院の受験には熱力学も含まれるので,有名な演習書を買ってきて計算のテクニックだけは習得したのですが,自分が理論体系の本質的な部分を理解しているとは感じられませんでした.このような大学卒業後 40 年以上も悶々としてきた気分を解消したかったのです.定年・引退でようやくその思いが叶いました.
今回は助走として,朝永振一郎先生の「物理学とは何だろうか(岩波新書)」をまず読んで,産業革命時代の天才 Carnot の発想に触れた上で,いったん頭をリセットして読み始めたのですが,等温操作という概念が非常に広くて強力で,その効用を最大限生かした体系になっていると再確認できました.また,従来の教科書ではあまり説明の無い 凸関数やLegendre 変換についても,巻末の付録で非常に丁寧に導入されているので,初学者でも戸惑うことはないでしょう.ただし,全体のレベルは高いので完全な独習はややつらいと思われ,私は数人の仲間と勉強会形式で読み進められたらいいなと思いました.
この教科書の特筆すべき点は,出版後20年近く経っている現在でも,刷を重ねるたびに誤植の修正が続けられており,さらに読者から寄せられたコメントを基に内容をアップデートする(Carnot の原理の証明に見事に結実しています)という現代的な取り組みがされていることです.おかげで最新刷を買った私はほんのわずかの誤植を WEB サイトで確認するだけで済みました.著者と出版社には敬意を表したいと思います.
この著者は私とほとんど同い年.ということはまもなく定年を迎えるはずです.するときっと時間がとれるようになるので,高評価の統計力学の教科書ともども,さらに充実を図るとともに,分野は何でも良いので新たな教科書を書いてくれないかなぁと思う次第です.量子力学なんてどうでしょう?
最後にこの著者があとがきで紹介している先輩の言葉を引用します.この教科書の執筆の動機となり,この教科書の本質を最もよく表している言葉だと思います.
統計力学が熱力学を基礎づけるのではない。熱力学との整合性こそが,統計力学を基礎づけるのである。
| 固定リンク | 0
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 江戸の情緒を深く味わえる(2022.05.02)
- ついに読了!一般相対性理論(2019.10.31)
- 現代的に再構成された熱力学(2019.06.03)
- 引退して味わう特殊相対性理論(2018.09.16)
- 気候変動の標準教科書(2015.06.21)
コメント