書籍・雑誌

2015/06/21

気候変動の標準教科書

気候変動を理学する ― 古気候学が変える地球環境観 単行本 - 多田 隆治(著),日立環境財団(協力)

気候変動を学ぶための良書として “チェンジング・ブルー” を紹介しましたが,今回紹介するのは,それよりも5年ほど後に書かれたほぼ最新の気候変動に関する解説書です.専門家でない人が気候変動を学ぶための最も標準的な教科書になりうると思い,紹介したいと思います.

この本は,日立環境財団が定期的に開催している “環境サイエンスカフェ” で “気候変動の科学” と題して開催された5回のセミナーの内容を書籍として編纂したものです.従って,セミナーで取り交わされた質疑の内容も含まれており,一般の人が感じる疑問や感想が収録されている点でも,入門書として非常に優れていると思います.

内容としては,チェンジング・ブルーの内容をほぼ踏襲するのですが,地球表層における炭素循環についてはかなり詳しく最新の学説が紹介されています.ここで “アルカリポンプ” や “炭酸塩ポンプ” など,一般の人にはほとんど知られていないけれども二酸化炭素の循環を理解する上では必須の事実が,詳しく質疑付きで紹介されます.私自身もこれらの循環機構を知るのは初めてで,半ば驚きをもってこれらのメカニズムを知ることができました.造礁サンゴが石灰の骨格を発達させても二酸化炭素の固定には貢献しない,というのは私にとっては衝撃の事実だったことを告白せざるを得ません.

後半のハイライトは,チェンジング・ブルーと同じく海洋大循環で,特にここ10万年の間に起きた急激な気候変動である “ハインリッヒ・イベント” と “ダンスガード・オシュガー・イベント” は詳しく紹介されます.このあたりの説明の粒度は,研究の進展度合いによるのでしょうか,チェンジング・ブルーよりも細かいものなので,好奇心の満足度はより高いものになっています.

私が共感したのは,著者のあとがきの部分.気候変動に関する社会全般の安易な議論に警鐘を鳴らし,科学者の良心として正しい知識の啓蒙に関する責任感が述べられています.

全体として,最新の研究成果を網羅的に解説してあり,気候変動に関心を持つ一般の人たちにとっての標準的な教科書となりうる良書だと思います.できればこのセミナーに出席して質疑を交わしたかったなぁと悔やんでいます.

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2015/05/17

気候変動に関する最良の啓蒙書

チェンジング・ブルー 気候変動の謎に迫る 単行本 - 大河内 直彦(著)

非常に良質の気候変動に関する良質な啓蒙書です.このような本が,日本人の著者により,日本から出版されていることを大変うれしく思います.

気候変動に関しては,文明の消長の原因の一つとして近代以前から興味を持たれてきたのではないかと思います.20世紀後半からは温室効果ガスによる温暖化というシナリオが現実味を帯びてきたことが語られ,21世紀に入ってからは,IPCCの一連の報告書に象徴されるように,各種研究の進展とともにその因果関係が明白な事実として認知されるようになりました.今やこのシナリオに反対しているのは,よほどのトンデモ学者か売名を企むジャーナリストというのが世の常識になりました.

しかし,しかし,気候変動に関する私たち人類の理解のレベルはどの程度のものなのか,私は以前から疑問を抱いてきました.地球45億年の歴史の中で,地球表層の環境(気候はその一側面)がどのような変遷をたどって来たのか未だ詳細なことはわかっていませんし,ましてやその変遷のメカニズムになるとほとんど何も分かっておらず,いまだに諸説乱立というのが実情ではないでしょうか?

地球温暖化に関連して語られる氷河期に関しても,現在われわれが生きている直近100万年程度の氷河期の中の現象だけではなく,数億年,数10億年以前の氷河期や,全球凍結という劇的な現象については,そういうことがあったらしいという断片的な証拠が提示されているだけで,その全体像は未だに未解明のままです.

我々の理解の程度に対する謙虚な態度を前提として地球温暖化が議論され,対策についても語られるのであればよいのですが,現実にはにわか仕込みの浅薄な知識が独り歩きして,短期的な自己都合を隠そうともしない論が多いことには危惧を感じます.

本書は,気候変動の関する,特に直近100万年程度の氷河期(氷期と間氷期の繰り返し)に関する科学者たちの研究の歴史を,非常に率直かつ客観的に紹介したものです.分かったこと,分かっていないことを区別し,事実と意見を区別した書きぶりは好感が持てるものです.

本書でも寒冷化と温暖化のメカニズムに関しては研究途上であることを正直に表明しており,ミランコヴィッチ・サイクル海洋循環による熱輸送,北半球高緯度の氷床の影響など,現在わかっている限りの影響因子を紹介し,それらがどういう科学者によってどのように究明されてきたかというプロセスを紹介してくれます.特に科学者たちの人間臭い部分にも光を当てているのが類書と異なる特徴でしょうか.かなりの程度分かってきたことが多いのですが,それでもまだまだ分からないことも多い.特に気候変動の非線形性,すなわちわずか数10年で気候が激変した記録には戦慄を覚えます.これが今日起きるとどうなるのか,背筋が寒くなるのは私だけではないでしょう.

今日の地球の気候は大陸の配置とそれに制約を受ける海流のパターンに大きく影響されており,特に自転軸の一方の極である南極にちょうど丸い形の巨大大陸がある,という偶然の好運によって,南極還流が発達して莫大な量の氷床が安定して保たれています.また北半球では高緯度地域に陸地面積が集中して氷床が発達しやすい環境にあります.しかしこれから数千万年後,大陸の配置が変化して循環流のパターンが現在と異なるものに変わると地球の気候がどのようになってしまうのか,こういうことについても思いを巡らしながら本書を読むことをお勧めします.

今年になって岩波現代文庫から再版され,買い求めやすくなっています.電子ブックにもすべきでは?

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2015/01/18

Shell Global Scenario to 2025の警句を別の視点で結実させた名著

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道(単行本) - ダニ ロドリック(著),柴山 桂太(翻訳),大川 良文(翻訳)

確か新聞の書評を読んですぐに買いともめたのですが長い間積読にしてしまい,ようやく昨年末に読み終えました.短くもないし簡単でもない経済学の本なのですが,専門家向けではなくてあくまで一般の読者を対象にしているので,私のような経済学の素養がない人間でも問題なく読み進めることができました.

結論から言うと,この本は名著です.主張していることは極めてまともな良識的なもので,言わば中庸の美徳を勧めるものです.本のカバーにも趣旨がでかでかと印刷されているので目を引くのですが,この本が主題とするのは, “民主主義„ と, “国家主権„ と, “グローバル化された経済„ はそもそも両立するのか?という問いです.

著者はこの主題に歴史から切り込みます.国家主権が無ければ,国家がその暴力装置徴税権でお膳立てしてあげなければ,自由主義経済は成り立たなかった,という実例をたくさん紹介します.そして,最終的には行き過ぎたグローバリゼーションを諦め,制限付きのグローバリゼーションで我慢しましょうと結論付けます.もちろん,その場合には民主主義と国家主権は十分に残したままで.

この結論に反対する人がいるとすれば,その他大勢を犠牲にしてでも自分が富を独り占めしたい人でしょう.このような人が実際世の中に大勢いて,その人たちがうまく作り上げた仕組みに私たちも知らず知らずに加担している現実があるわけですが,それに対しても目を開けと言われているような気がします.

本書ではトービン税のような,お金の行き来に粘性(抵抗)を与える仕組みを示唆していますが,力学を学んだものとして大いに賛同できます.もう一つこのような粘性を与えるべきものに,インターネット上の情報のやり取りがあります.電子メールに超低率で課金するだけでスパムメールは激減することでしょう.何でもタダで自由にすれば良いというものではないという実例は世の中にたくさんあり,経済活動もその例外ではないという極めてまっとうな結論に清々しさを感じるのは私だけではないでしょう.

実はこのトリレンマには強烈な既視感があります.実はもう10年ほど前にシナリオ・プランニングの最高峰である “Shell Global Scenarios to 2025” が提唱したトリレンマと全く同じだからです.恐るべき洞察,恐るべき先行観だったと思います.このシナリオでは三つの概念は両立できず,それぞれの社会はそれをある一定割合で妥協させた状態にならざるを得ない,と結論付けます.同じだなぁ!

ちなみにその数年後に出された “Shell Global Scenario to 2050„ はこちらRoyal Dutch Shell という会社の奥の深さには恐ろしさを感じるほどです.

いずれにせよ,極めてまともで誠意のある結論がうれしくなる本です.全ての人にお勧めします.

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2014/09/22

凶悪な理不尽と闘う法廷弁護士

審判(ハヤカワ・ミステリ文庫)(競馬シリーズ) - ディック・フランシス(著),フェリックス・フランシス(著)

久しぶりに読んだ競馬シリーズ.私は学生時代からディック・フランシスの作品を愛読してきました.このブログでも過去に晩年の作品をいくつか取り上げて(*1 *2 *3 *4)紹介してきました.知っての通り,ディック・フランシス本人は2010年2月14日に亡くなっているので,本人執筆の新作が出ることはないのですが,生前に書き残した原稿に息子のフェリックス・フランシスが筆を入れて完成させた作品がいくつか出版されています.今回紹介する作品もその中の一つ.著者名が連名になっているのでわかります.競馬シリーズの名翻訳者であった菊池光亡き後を継いだ北野寿美枝が今回も翻訳を担当しています.

ストーリーは非常によくできています.アマチュアの障害騎手である主人公の職業は法廷弁護士.知り合いのプロ騎手が殺された事件を担当することになって,凶悪な何者かからの脅迫に巻き込まれ,脅え葛藤します.この作品は,競馬シリーズではお決まりの障害競馬やその関係者と,弁護士事務所や法廷という二つの世界を行きつ戻りつ,主人公が肉体的苦痛や精神的苦悩に耐えながら,犯人に挑戦を挑むというお話なのですが,ストーリーの細部が非常にうまく構成されていて上質のエンターテイメントに仕上がっています.これは息子のフェリックスの才能なのでしょうか?だとするとこの人は作家としても成功できそうですね.

特にこの作品では,法廷弁護士の仕事がどのようなもので,イギリスの法廷内外でのやり取りがどのようなものかを解説風に描いてあるので,その分野を知るにも非常に有益な作品です.

主人公はストーリーのかなり早期にお決まりの肉体的苦痛を味わう羽目になります.競馬シリーズではこの肉体的苦痛が一度で終わらず二度三度と繰り返されることが多いので,本作品も痛い場面が後半に出てきて読み進めるのがつらいだろうなぁと思っていました.しかし終盤で骨を折られるようなことにはならず,新たな傷を作らずに終末を迎えることができたのでほっとしました.ただし最終場面での主人公の行動については,いくら正当防衛だからと言って意見が分かれることでしょう.

長い作品なのですが,翻訳の質が高いので日本語を読むのが楽ですし,そもそもストーリーが面白いので没頭して読めます.痛い場面が比較的少ないこともお勧めできる理由の一つです.そしてイギリスの法廷や陪審制についてもたっぷりと勉強ができるという大変おすすめの作品.

フェリックス・フランシスがこれからどのように独り立ちしていくのか,いかないのか,気になるところです.

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2013/04/06

ようやく双子のパラドックスが理解できた・・・と思う

高校数学でわかる相対性理論(ブルーバックス)[新書] - 竹内 淳(著)

特殊相対性理論は子供のころから幾度となく一般向けの入門啓蒙書を読み,ある程度理解したつもりにはなっていたのですが,しかし大学できちんと学ぶ機会を逸したので,結局は浅い理解しかできていないという自覚がずっとありました.特に,双子のパラドックスは,どちらから見ても相対的に運動しているのだから,どちらか片方だけが時間が遅れるのはおかしいと感じ,それが心に刺さったとげのようにいつまでも私を悩まし続けていました.私と同じように悶々としている人は多いのではないでしょうか?

そういうあなたはぜひこの本を読むべきです."高校数学でわかる" というのは書籍のマーケティング上は有用なのでしょうが,特殊相対論に限っては実はどうでもよいことで,何しろローレンツ変換は線形変換なので,高校生の数学でももともと十分.この本の数式の展開はちょっとくどいくらいなので,もう少し端折ってもよいのではと思うほどです.

この本の真髄は,数式がやさしいというところではなく,初学者が陥りやすいところを丁寧に補う配慮が散りばめられているところにあります.双子のパラドックスについては,ミンコフスキー図での説明を通して,互いに相手の時刻を確認するというのがいかなる事象かということを丁寧に説明してくれるだけではなく,宇宙船に乗った兄が途中で反転して地球に戻ってくることに関しても,時空図と固有時を使って非常に丁寧に解説してくれるので,私は生まれて初めていくつかの新しい発見を味わうことが出来ました.ローレンツ変換の不思議は,そう単純ではなかったのです.

この本のもう一つの特徴は,特殊相対論を電磁気学に適用していることです.これは一般向けの啓蒙書には皆無といってもよい特徴で,お陰で,私は荷電粒子が磁場の中を運動するときに働くローレンツ力が,相対論的な力であるということを初めて理解できました.運動速度が光速に比べてはるかに小さくても,有意に大きな相対論的な力が現れるのは,電磁気学の非常に大きな特徴です.この本を読むことで,このことを初めて学ぶことが出来て,有意義でした.

一つだけ不満を言うとすると,途中で四元ベクトルの説明を行い,反変ベクトルや共変ベクトルの解説に踏み込んでいますが,これは相対論的電磁気学や一般相対論への足掛かりになるとはいえ,特殊相対論の範囲では特に必要はないので,むしろ省いたほうが良いのでは?と思いました.

ともあれ,初学者にここまで配慮した入門書はなかなか見当たらないので,知的パズルを楽しむつもりでこの本を読むことをお勧めします.私はとりあえず通勤電車の中でさっと読んだだけなので,定年後にもう一度机の上でノートを取りながら,じっくりと読み直してみようと思います.この著者の他のシリーズも読んでみたいですね.

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2012/04/29

生態学的文明論の秀作

銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎 [単行本] - ジャレド ダイアモンド (著), 倉骨 彰 (翻訳)

銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎 [単行本] - ジャレド ダイアモンド (著), 倉骨 彰 (翻訳)

大変有名なベストセラーなのですが,私はつい最近になるまで読んでいませんでした.単行本上下二巻からなる大著なので,買ってはみたものの手を出せず積読になっていたのです.ようやく意を決して通勤電車の中で読み始め,実質2週間ほどで読み終えることが出来ました.

この本は,一言で言ってしまえば "生態学的文明論",それも文明発祥論と言ってよい内容です.世界の文明がどのようにして発祥したのか,あるいは発祥しなかったのかの原因を,人類にとっての生態学的環境の差異に求めるものです.すなわち,狩猟採集から農耕栽培への移行が早く効率的にできた地域と,そうでなかった地域の差異は,その土地の地理的・生態学的な差異に基づくもので,人種的な差異に基づくものではないという主張です.

これにより,栽培に適した穀物や豆類の現生種と,適度な土壌や降雨に恵まれた肥沃三日月地帯で最初の農耕栽培が始まることになりました.家畜についても,ユーラシア大陸には家畜化しやすい大型哺乳類が複数種生息していた幸運に恵まれます.そして余剰食料を作る余裕が生まれ,大規模灌漑の必要性から社会の階層化が進み,農民以外の専門職種が生まれ,権力構造が発達し・・・という文明発展のシナリオが回り出した,と主張します.

一方,他の大陸ではこのような好条件に恵まれたところは無かったため,ユーラシア大陸と他の大陸では文明発展の時期とその速度に大きな差が生まれ,それは今日に引き継がれて西欧の世界支配が継続していることを説明します.

面白かったのは,大陸の形,特にそれが東西方向に広がっているのか,南北方向に広がっているのかによって,文明の伝播速度が大きく異なるという主張とその実証です.ユーラシア大陸は東西に非常に長い大陸で,このため一か所で生まれた文明が気候的に類似の他所に素早く伝播したと論じます.細かいことを言うと難はあるものの,南北アメリカ大陸と対比させれば,その差は歴然で説得力もあります.

本書の内容は概ね納得できるものですし,ナイーブな先住民礼賛論に対する啓蒙的な反論にもなっていると思うのですが,もう少し反対仮説に対する実証を進めないと,このままでは主張が弱いなと感じます.歴史での実証は非常に難しいので,そう簡単にはいかないだろうと思いますが,その方向の努力は他の研究者の協力を得ながら進めていくべきです.

そう思っているところにすぐに思い出したのは,数年前にこのブログでご紹介した本「日本人になった祖先たち ― DNA から解明するその多元的構造」です.ミトコンドリア DNA の分析で人類の出アフリカ以降足取りを実証的に分析する手法なのですが,最近急速に研究成果が出てきています.今日紹介した本は1997年頃に書かれた今となってはかなり古い本なので,このような最新の研究成果が取り入れられていません.大いに続編を期待したいところです.

私はこの本を読む前に,同じ著者による文明の発祥ならぬ「文明の崩壊」論の大著を読んでいました.この本では,著者は文明が崩壊する要因をあげ,それを実証的に論じていますが,それは逆に読めば,文明を維持するためには最低限何が必要かを論じていることでもあります.複雑な対象を分析する際によく使う手法なのですが,この場合には "Minimal Civilization" と呼んでもよいような設定を行うことで,文明の本質に迫ったことになります.こちらも大変お勧めの本です.

著者は生態学を中心とした学際的な研究を行ってきたフィールドワーカー.その経歴が存分に生かされたこれら二つの本を通読すると,著者の文明観をよく味わうことが出来ます.このような骨太の論考を著わすことが出来る作家が日本からも生まれることを期待します.

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2011/01/30

超長期の視点でマクロ経済を論じると・・・

超マクロ展望 世界経済の真実(集英社新書)[新書] - 水野 和夫(著),萱野 稔人(著)

水野和夫さんは,リーマンショックの前後から注目を集めているエコノミストです.他のエコノミストと決定的に異なるのは,超長期の歴史的視点で人類の経済を論じていること.例えば,ヨーロッパが封建領主制から絶対王政に変化した理由を,マクロな利子率という指標をもって説明してしまいます.もちろん,これだけで体制の変更がなされたわけではありませんが,しかし,大航海時代が始まり経済的な環境が激変したことが,政治体制を揺るがせるきっかけになったことは間違いありません.望湖庵日記では,水野さんがリーマンショック直後に出された新書をレビューしたことがあります.今回ご紹介するこの本は,水野さんと政治哲学者の萱野さんの対談という体裁を取っており,超長期のグローバル経済を,政治哲学の視点と融合させながら論じた,大変刺激に富むものです.

この二人の論点を要約すると,経済がいくらグローバル化しても,国家の役割が無くなるわけではない.また,経済にとって政治的ヘゲモニーは極めて重要な役割を演じてきたが,これからはヘゲモニーの中身が変わっていく,ということになります.

まず,前者についてですが,ここ数年間の間に急速に世の中全体にコンセンサスが得られるようになった概念だと思います.リーマンショックにおいて,アメリカの自由経済が崩壊の危機に瀕した時に,それを救った最後の砦,あらゆる金融リスクを引き受ける "The Last Resort" は実は国家でした.これは日本においても同様で,市場とは独立した存在にしか市場を救う役割は期待できなかったのです.

私にとって特に印象的だったのは,萱野さんが繰り返し主張していたことで,国家の徴税権というものは,自由主義経済の外にある独立した権利であるということ.私には,そのために社会の中の金の流れがそれぞれ異なる原理に基づいて複線化されることにより,租税がある種の安定化装置として働くとまで言ってほしかったくらいです.徴税権は,政治哲学にとっては極めて重要な概念であり,自由正義社会契約という概念とも密接につながるだけに,もっと深堀してほしかったという無念さが残りました.

後者については,ここ数年,先進工業国が相対的に没落するとともに,新興国がヘゲモニーを獲得していく傾向がますます明らかになって,高い関心を持たれるようになった概念だと思います.中世の封建制から大航海時代,絶対王政時代を経て近代の国民国家,さらには現在のように市場のルールや制度を自らに都合よく合意させる能力に至るまで,ヘゲモニーの所在は変転してきましたが,これからどうなるのか?資本はすでに国民国家とは無関係に自らの利益を追求しているわけですが,それが政治的なヘゲモニーとどのように影響を及ぼし合い,変転していくのか,まだ誰も答えを用意してはいないように思います.

水野さんがこの対談が示すように,先進工業国の収支は原油に代表される一次資源の価格に極めて敏感です.新興国がこれからますます一次資源を必要としている以上,一次資源の価格は上昇を続け,一次資源は発展途上国から安く買い叩けるという前提で組み立てられてきた国際自由市場そのものが挑戦を受ける可能性が高いと思います.アメリカが熱心に維持してきた国際石油市場が,ベネズエラのチャベス大統領に代表される資源ナショナリズムによって挑戦を受けていることは,そのもっとも端的な事例ではないでしょうか?

さらに言えば,今や絶好調の韓国サムスングループが毎年一兆円規模の利益を叩き出しているとはいえ,その半分ほどは国外の株主に流出しているという事実をよく認識すべき,との指摘も重く受け止めるべきです.ここに,大航海時代以来の資本主義のおぞましさを見るとともに,欧米資本のしたたかさを見る思いがします.

日本や日本の企業などが,このような状況の中でどのように自らの立ち位置を定め,ヘゲモニーに加担していくのか,はたまた外部のヘゲモニーに翻弄されていくのか,超長期の視座というものがますます重要になってきたことを実感させられます.

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2010/06/06

ディック・フランシス再起の一冊

再起(ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-41) - ディック・フランシス(著),北野 寿美枝(訳)

イギリスのミステリー作家として世界中にファンが多いディック・フランシスが今年2月に亡くなったことはこのブログでもお伝えしたとおりですが,このブログでもわずかながら晩年の数作品を扱ってきました(*1 *2 *3).著者は,最愛の妻メアリーに先立たれた後,いったんは執筆活動を停止したのですが,数年を経て復活.息子の手を借りながら新しい作品を生み出すようになりました.しかし日本のファンにとってショックだったのは,ちょうど復活のころに名翻訳家 "菊地光" を喪ったことです.

本作は,著者の復活後の第一作,そして日本の読者にとっては菊地光亡き後で新しい翻訳者 "北野寿美枝" を迎えての第一作,そして,主人公は競馬シリーズでこれまで登場回数の最も多いわれらが "シッド・ハレー (Sid Halley)" という,いろいろな意味で長年のファンには興味深い作品です.

ストーリーの詳細はネタばらしになるので控えますが,再起の作品にふさわしく,競馬シリーズの原点回帰にふさわしい作品です.主人公がシッド・ハレーという競馬専門の調査員ということもあって,今回は競馬界の中だけが舞台.美術家や料理人やガラス職人が主人公ではありません.話の中身も競馬の不正にかかわること.競馬場もチェルトナムが主な舞台.

これまでのシッド・ハレーと異なるのは,前妻とはすでに離婚していて,若いオランダ人の女性と同棲していること.まあなんと羨ましい限りですが,彼女が事件に巻き込まれ,主人公の苦悩は深まります.また,前妻の父親,主人公にとってはかつての義父とは相変わらず親密な交際を続けていて,今回は大いに助けてくれるという設定.狭い人間関係なのですが,その現実にはありえないような展開が大変興味深い.

悪役陣には,今回もお決まりの凶悪な主役がいるのですが,脇役はちょっと変わった小物が多く,中にはほとんど登場せずに舞台裏に押しやられたままの悪役もいて,ストーリー展開に甘さが残る点は残念.まあしかし,全体としてはディック・フランシスのこれまでの水準から大きく外れることのない作品で,読者は質の高いミステリーとして安心して読み進めることができるでしょう.インターネットやグーグルなどの最新の話題もしっかり出てくるのは息子フェリックスの協力があってこそ,ということも考慮に入れる必要があります.

さて,日本語の訳文ですが,菊地光からどう変わったかと問われれば,菊地節を踏襲した禁欲的な名訳,と言ってよいと思います.英語から日本語への翻訳というのは,言語構造も単語のカバーする概念や範囲も異なるものをどう妥協させ,かつ文学作品として読むに堪える質の日本語を作っていくかという,極めて高度で創造的な仕事なのですが,北野寿美枝は,周囲からの期待と疑念という圧力に見事に耐え,この仕事をやってのけました.

菊地光のほかに,私が好きな翻訳家には,伊藤典夫がいるのですが,このような翻訳家はもっともっと評価されて良いように思います.

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2010/05/03

胸のつかえがすっきりした骨太の分類学論

分類という思想(新潮選書) - 池田 清彦(著)

このところ生物分類の考え方に疑問を持ったことがきっかけで,何冊かの分類学(の考え方)を論じた本を読んできました.そのうち三中信宏さんによる2冊はこのブログでも紹介したとおりです.しかしどうも自分の考え方に合わず,違和感を感じたままだったのですが,それはこの本を読むことでほぼ解消しました.この本の著者池田清彦さんの分類に関する考え方は,私の考え方に非常に近い.

著者は,構造主義生物学というものを名乗ります.これは当人たちによっても学会の主流からは外れているとのことですが,私にはこの本の内容にはかなり肯ける点が多いと感じました.著者は,私が三中信宏さんの本をレビューしたときに言及した渡辺慧さんの "みにくいアヒルの子の定理" を詳細にこの本の中で紹介しており,このことにまず驚きます.そう,著者は唯名論実念論普遍論争のことをまず知っておけ,と読者に命じるのです.著者のナイフは,科学的方法論自体へも切り込まれます.科学は具体的な事物を一般化抽象化して普遍的法則として語りたがる.具体的事物としての水は H2O という化学式に抽象化できるが,果たして個々の生物はイヌやネコという類に抽象化できるのか?と問いかけます.これはすなわち種は実在するか?と問いかけているのです.

著者の切っ先はほどなく分岐分類学に向かいます.そう,三中信宏さんが肯定的に紹介している分岐分類学を,この著者はばっさばっさとめった切りにしていきます.その激しさとしつこさは,この批判がこの本の半分程度を占めると言えばお分かりいただけるでしょうか?若かりし頃の三中信宏さん自身も実名を挙げて批判されているほどです.しかし著者の批判を読んでいくと,たしかに分岐分類学の怪しさや頼りなさもあぶりだされてきます.特に,"側系統を分類群として認めない" というのは,方法論として重大な欠陥であるように思えます.最節約原理は方法論として素朴すぎると感じますし,最尤法にしても棄却率を付記せずに繁用するのは考え物です.

さて著者の批判の矛先にあるものは,分岐学そのものよりは分岐学がそうせざるを得なくなったリンネ式命名法だと思われます.これに対する代替案として,著者は包含図を提示します.考え方としてはその通りなのですが,これを分類法に用いるのは容易ではありません.コンピュータ言語による記号処理にはこれで十分でしょうが.生物分類に関する限り,私たちはまだ十分に正しくかつ容易に使える方法論を獲得していないように思います.

一方,分岐分類学に対する厳しさに比べると,著者は自然言語や自然分類に対しては大変優しい態度を見せます.これは,構造主義との親和性からは当然のことと受け止められます.しかし,私にとっては "みにくいアヒルの子の定理" からの当然の帰結,すなわち "分類とは人間が進化の過程で獲得した適応行動にすぎない" という結論をもっと言ってほしかったなぁと思います.これぞ人間のパターン認識の本質.そう,この能力は進化の過程で適応的に獲得してきた(はず)ものなのです.三中信宏さんの本のレビューでもこれは書きましたね.

分子系統学に対する著者の態度は中立的かつ明確です.それは DNA という高分子が H2O と同じように記号化できるからでしょう.そう,これは類とみなせるもの.しかし,DNA は実は部品のカタログ集に過ぎず,どの部品がどの時点でどのような順序でつなぎ合わされるのかまで DNA に書いてあるわけではないようなのです.カタログのページの中の部品の並びだけを見て,最終的に作り出される生物の姿かたちを言い当てることはできない相談です.従って,分子系統学も慎重に扱わないと,そのうち大きな間違いをしそうな気がします.

それにしても分類は奥が深く,学べば学ぶほど我々の脳の機能の最重要の一部と思えてきます.これまでいろいろと腑に落ちないことが多かったのですが,この本を読んですこしすっきりしました.また哲学に強い著者の数々の骨太の強弁は,頭の体操として十分に楽しめます.

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2010/04/04

週刊こどもニュースなみによくわかる戦略論

戦略の不条理 なぜ合理的な行動は失敗するのか(光文社新書) - 菊澤研宗(著)

最初は,しまった!これは巷にあふれるビジネス How To ものをつかんでしまったのか?と思いましたが,これは完全な誤解でした.この本は,経営戦略論,それもその歴史的な経過を過去から最新のものまでを軍事戦略論の歴史と対比させながら,大変わかりやすく解説したものです.さらに,それに著者の主張である Grand Cubic Strategy なる理論を加えて,厚みのある議論を展開しています.

この本の最大の特長は,その平易さにあります.とにかくわかり易い.NHK の週刊こどもニュース並みにわかり易い,といえばわかるでしょうか?経済学の各派の主張が経営戦略論と土嚢用に関係しているのかが平易に解説されていますし,軍事戦略論もクラウゼビッツに始まって,リデル・ハートハンニバルからロンメルまでと幅広く概観するのが特徴です.もちろん,紙数の制限があるものですから,端折りすぎの傾向が無いわけではありませんが,それぞれの戦略家たちの特徴を非常にコンパクトにまとめて解説している姿勢は特筆に値します.

さて,著者独自の主張である Grand Cubic Strategy については,はなはだ消化不良.直接的アプローチ,間接的(心理的)アプローチが重要であることは素人目にもよくわかるのですが,それと対等に対比される知的世界の価値に基づくアプローチというものには,もう少し説明が必要ではないでしょうか?間接アプローチを拡大解釈すれば,この知的世界の価値に基づく第三のアプローチも包含することができるのではないかと思います.あえて,ここで第三のカテゴリーを設けて区別する必要がどこにあるのか,私にはよく理解できませんでした.

まあ,そんなことよりも,戦略論の歴史的な経過をわかり易く知るだけでも,この本を読む価値は十分にあると思います.お勧め!

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