江戸の情緒を深く味わえる
半七捕物帳(完全版) Kindle版 - 岡本 綺堂(著)
言わずと知れた有名なシリーズですが,原作を読んだことがあるという人は意外に少ないのではないでしょうか?多くはテレビのシリーズもので親しんだはずです.私の記憶が間違っていなければ,私が最初に観たのは 1966 年から 1968 年にかけて TBS 系の水曜劇場で放映されたもの.主演は長谷川一夫でした.それ以前にも,それ以後にも何度となくテレビでシリーズ化されています.最近では 1992 年から 1993 年にかけて放映された里見浩太朗主演のシリーズがあります.
そしてこれはその原作.私は原作を読むまで全く知らなかったのですが,この作品は,化政から幕末にかけて江戸の岡っ引として活躍した半七老人を,明治になってから新聞記者の「私」が度々訪ねては様々なエピソードを書き綴ったものという建てつけになっています.
様々な事件を解決していく探偵小説の面白さはもちろんあり,作者の岡本綺堂もシャーロック・ホームズを相当意識して書いたと言っていますが,しかしこの作品の本当の面白さは,江戸の情緒や習俗を,まだそれが人々の記憶の片隅に残っている時代に書き残してある点です.おそらく風俗考証としても貴重なものです.
私のような無教養の者には初めて聞くような言葉が多く,最初のうちは広辞苑や大辞林などをいちいち引かないと理解できない言葉も多く出てきました.例えば,香具師(やし)という職業があったことを知っていますか?これは今風に言えば的屋(てきや),つまりフーテンの寅さんの職業のことです.今は無くなった様々な行商があったのです.また御新造(ごしんぞう)という言葉を知っていますか?これは武家や上層町人など身分ある人の新婦の尊敬語.転じて中流社会の他人の妻の尊敬語だそうです.今は全く使われない言葉ですね.これ以外にも,納所(なっしょ),自身番,番太(ばんた),中間(ちゅうげん)などなど,職業や身分を表す言葉がたくさんできてきます.これらは江戸末期から明治にかけてはまだ理解できる人が多かったのでしょうが,現代では失われてしまった言葉たちです.
また面白いのは,巾着切り(きんちゃっきり)という言葉.これは今でいうところのスリですが,巾着の紐を切って奪うというそのまんまの言葉です.縁付く(えんづく)ということばも面白いです.これは嫁ぐという意味.これ以外にも矢場女(やばおんな)とか夜伽(よとぎ)とか,現代では意味を成さない,あるいは失われた言葉が多く出てきます.日本語の語彙がいかに短期間に変化してきたがよくわかります.
さらに江戸の地理や情緒も大変興味深いものがあります.いちいち紹介はしませんが,それらがいろいろな事件と絡み合って,読者の頭に深く残るところがこの物語の良いところです.八丁堀や小伝馬町など,今の地下鉄日比谷線の沿線の地名がたくさん出てきます.伝馬町には牢屋敷や刑場があったのでした.浅草の聖天(しょうでん)という地名もよく出てきますが,これは今でいう待乳山聖天(まつちやましょうでん)のことでしょう.反面,大川対岸の深川方面の地名は富岡八幡以外あまり出てきません.また江戸末期の様々なしきたりや人々の常識だった事柄がよく描かれており,それらが合わさって江戸の情緒を味わえるようになっています.
捕物帳の事件内容は様々ですが,色恋ものが多いという印象です.旗本や江戸詰めの藩士,僧侶なども出てきます.女性が主犯となっているものも多い.またこの時代の特徴として,狐使いとか,九州の蛇神の血統とか,今では見向きもされなくなった呪術系の伝説がまだしっかりと残っていたというあたりも非常に興味深いです.
岡っ引や商家の人たちの日常生活が良く描かれているので生活様式もある程度想像がつきます.半七は詮議(捜査)の途中でしょっちゅう蕎麦屋に入って昼食を取ります.半七自身は下戸なのですが,手下が酒飲みだと昼食の時にも蕎麦屋の二階で酒を飲んでウナギを食べたりします.これが江戸の岡っ引の普通の行動だったとすると,今よりも鷹揚で豊かという感じがします.
ところで,捜査については現代のような客観的証拠主義ではなく,犯罪者心理を読んだうえで犯行シナリオを描き,それに沿って容疑者を問い詰めて自白させるという手法がほとんどです.下手をすると冤罪を引き起こす恐れがあるのですが,まあこれは指紋などの科学的捜査手法が無かった時代なので仕方がありません.明治になってからの半七もその差異に言及しています.
まあこんな感じで,化政から幕末の江戸の情緒や習俗を知るには非常に良い教科書です.現代との差異や現代への変遷という視点で見ても興味深いと思います.現代あまたある捕物帳ものの嚆矢となった作品であり,銭形平次などの作品はみな影響を受けているという意味でも,読んで損はない作品だと思います.
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