オピニオン

2016/05/28

個人番号カードで印鑑証明

以前このブログで個人番号カードを取得したことをお伝えしましたが,ようやくカードの出番がやってきました.ある手続きのために印鑑証明を取得する必要が出てきたのですが,このカードがあれば,従来のように居住地の市役所などに出かける必要はなく,全国のコンビニで取得することができます.

私は,居住地とは異なる市の駅前のローソンでやってみました.まず店内のコピー機のところに行きます.画面のメニューに “行政手続き書類” などというメニューがあるので,それをタッチ.さらに “印鑑証明” を選択し,それからコピー機の所定の場所に個人番号カードを置きます.非接触通信で情報のやり取りをするようです.暗証番号の入力を求められるので入力.印刷前には料金を入れるよう指示されます.印鑑証明は一通150円.安いです.お金を入れると,印鑑証明書がコピー機から出てきます.さらに領収書が出てきて一連の操作は終わりです.

画面をタッチしてから次の操作の画面に移るまでが間延びしており,これは通信や認証に時間がかかっているためと思われますが,あまりサクサクと動く感じではありません.コピー機が混んでいるときにはちょっとやりにくい感じです.しかしどこのコンビニでも証明書を引き出せる利便性は非常に高く,料金が低廉であることもあって,もう市役所に行くことはないのではないか,と思えるほどです.

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2016/03/27

個人番号カードの貧相さに驚く

昨年11月に申し込み,先週ようやく受け取り案内が来ていたので,昨日遠くにある市役所にはるばる出かけて個人番号カードを受け取ってきました.

渡されたカードを見てびっくり.なんと貧相なカードなのでしょう!まず何と言っても,文字が小さく非常に読みにくい.そもそも文字色が純黒ではなくグレイであるうえに,カード全体に偽造を防止するためか多色刷りのテクスチャが濃い目に印刷されているので,文字やQRコードのコントラストが低い.特に,最も肝心な個人情報の部分は,わざわざ濃いグレイの背景色になっているので,なおさら読みにくい.実際のカードの画像は上のリンクから見ることができます.

必要な情報や証明書は全て電子化されてデータセンターやカード内部に保存されているのですよ,したがってカード表面の情報やデザインは単なる飾りでしかないのですよ,と言われるような気がするのですが,それでも,このカードは身分証明書として使用できるという触れ込みなので,それならもうちょっと見栄えのするカードデザインにできなかったのかと,行政当局やこの仕事を受注した企業のセンスを無さを嘆かざるをえません.そのへんの会社の社員証よりもずっとダサいです.

このカードの有効期限は10年,内部の電子証明書の有効期限は5年です.私のような感想を持つ人は多いと思うので,10年後を目途にもっとましなデザインのカードに置き換えられていくことを希望しますが,それには巨額の費用が掛かると言われて話が進まなくなりがちだなぁ.

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2015/08/23

FIT賦課金の不公平

今月の電気料金の請求書をよく見ていたら,これまで見落としていた項目を発見し驚いてしまいました.それは “再エネ発電賦課金” というわかりにくい略語で,要するに FIT 制度によって電力会社が再生可能エネルギーを買い取る費用を最終需要者にそのまま転嫁するものです.

Electricitybill_jul2015

我が家の場合,賦課金は 437 円なので,請求金額に占める割合は 5.9% になります.我が家は家族数も少なく節電にも努めているので,真夏でもこの程度の電気料金で済んでいるのですが,これが育ち盛りの子供が二人いるような家庭だと,ひと月の電気料金はゆうに1万円を超えるはずで,それに 6% もの賦課金が加わることは決して無視できる金額ではありません.

日本で FIT が始まった時に,そのあまりに高額な買取料金に業界が色めき立つと同時に,太陽光パネルを設置して売電できる金持ちが得をして,パネルを持てない貧乏人に賦課金を払わせることの不公平を非難する意見がありましたが,こうやって毎月賦課金を払っている身になってみるとこれは確かに理不尽な制度だと感じます.何より電力会社が買い取り価格を最終需要者にパススルーして自分は痛くもかゆくもない,という事業者寄りの制度には納得ができません.地域独占と総括原価方式によってぬるま湯経営に浸かってきた電力会社こそ,二酸化炭素の排出を減らす負担を需要者と分かち合うべきです.

FIT そのものは,そのままでは導入のインセンティブが働きにくい再生可能エネルギーを社会に導入するために考え出された優れたアイデアであることは間違いありません.90年代のデンマークではこれで風力発電が非常に急速に導入されました.しかし,社会各層の負担の重みは一様ではなく,従来方式の発電事業者,送配電事業者,最終需要者のそれぞれが異なる形で負担を分かち合って再生可能エネルギーへの移行を促す制度であるべきではないかと思います.発電事業者には大規模な再生可能エネルギーの導入を促し,送配電事業者には不安定な再生可能エネルギーを受け入れられる電力網の整備を促すことも必要だからです.最終需要者だけに負担を強いても,再生可能エネルギーが経済的に持続可能なエネルギー源になるとは思われません.

ドイツではこの賦課金がすでに一世帯当たり 1,000 円を超えており,これ以上の負担は世論が受け入れないそうです.そこで太陽光発電の電気は電力網に戻して買い取るのではなく,自家消費するほうが得になる料金体系を導入しつつあるとのことですが,このような小規模の発電と蓄電への設備投資が社会全体にとって効率の良いことなのか,疑問ではあります.

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2015/01/01

新年のご挨拶(喪中版)

昨年母親を亡くしましたので,今年は年賀状を出しておりません.Web 上の新年のご挨拶も例年に比べて簡素に済ませたいと思います.ご了解いただければ幸いです.

さて,母親を亡くした件です.母親はここ数年間がんを患い闘病を続けていました.発見が遅れたために,すでにがん組織が臓器の広い範囲に広がっており,また高齢であることもあって,手術や放射線による治療は断念せざるを得ませんでした.残るのは化学療法,すなわち抗がん剤です.しかし,抗がん剤には強い副作用があります.これによって髪の毛が抜けたり吐き気がしたり,ろくでもない体調の変化に見舞われます.

理想的には,その人の遺伝子の変異型に合わせた抗がん剤を調製出来ればよく,長年研究が続けられていますがまだ実用には至っておらず,結局は大多数に効くと想定して調製されたものを使わざるを得ません.しかし,これが個々の人に効くかどうかはくじを引くようなものです.

母の場合,3種類の抗がん剤を順番に試していったのですが,残念ながら結局どの抗がん剤にも効果は認められませんでした.1年ほどをかけたのですが,入退院や通院の手間,多額の抗がん剤費用を負っただけに終わりました.結局,医師との話し合いの末に抗がん剤治療は打ち切り,“緩和ケア„,すなわち根本治療は諦めて残された生存期間をいかに有意義に過ごすか,という方向を選択せざるを得ませんでした.

幸いなことに現代の緩和ケア技術は素晴らしく,亡くなる6か月前まではほぼ健常者並みの生活を送ることができました.この間は帰省するたびにドライブなどに連れ出し,行きたいところに連れていくようにしました.痛みが目立ってきて専門医が常駐するホスピスに入院した後でも,亡くなる1か月前まではステロイドの効果で食欲も旺盛で,普通に帰宅したり外食したりできたことがせめてもの慰みでした.

最後の1週間は急速に症状が進み,医療用麻薬の量も増やさざるを得ず,不安障害のようなものも出てきましたので,亡くなる前日からは鎮静剤を継続投与して鎮静状態に入り,静かに臨終を迎えました.

私はベッドサイドで最後の一呼吸まで看取ったのですが,こういう最期も悪くないなと思ったものです.なぜならば,亡くなる1週間までは普通に起きて歩き回り,食事や排せつも行うことができる,最後は急激に症状が進むものの,準備と覚悟さえできていれば短期間で一気にあの世行きです.長患いにまつわる様々な面倒事に苦しまずに済みます.皆さんはどのようにお考えになりますか?


昨年は仕事の面では多くの海外出張に出かけて忙しく,体にも負担をかけた年でした.特に時差のあるアメリカや欧州への出張が多く,それはそれで面白くはあるのですが,体に対する負担は相当のものです.負担としては,直接的には長時間のフライト,間接的には食事や睡眠のリズムの乱れがあります.

長時間のフライトに耐えることはすなわちエコノミークラス症候群の予防に尽きます.従って座席は必ず通路側,やむなく窓際になった場合は乗り込んだ後で通路側の空席を探して移動するなど,神経を使いました.10時間以上のフライトになるので,何度も席を立ってキャビンの最後尾に行っては柔軟体操や足踏み,下肢部のマッサージを行って血栓ができるのを防ぎます.

海外出張に行った際の気晴らしや楽しみについてですが,アメリカは中西部の農業地帯に行くことが多く,広々とはしているのですが,歴史や文化に触れることは難しく,日本ではなかなか食べられない美味しい熟成肉にありつけるくらいしか楽しみがありません.一方欧州は歴史ある都市に滞在できる機会が多く,これは写真好きにとっては絶好の機会を提供してもらったようなもので,わずかな空き時間を利用して,どんなお天気であっても街を彷徨することを繰り返しました.古い街の狭い路地には特に興味を惹かれます.

今年も海外出張が多くなりそうなので,体調を整えておきたいと思います.


海外出張の陰に隠れてしまいましたが,長時間通勤を相変わらず続けています.もう慣れてしまったと言いたいところですが,加齢とともにだんだんきつさを感じることが多くなりました.もう定年も近いのですが,定年と同時に年金をもらえるわけでもないため,しばらくは継続して働き続けなければならないと思います.年とともに通勤のきつさが増すことは確実なので,どうしたものかと思案しています.

以前は通勤中は座っていても立っていても本を読むことが多かったのですが,ここ数年はそれをやらなくなりました.というのも老眼乱視が急速に進行し,しっかりと眼鏡をかけなければ本を読むことができなくなってしまったのです.それで電車の中での読書は中止していたのですが,つい最近電子ブックリーダーを手に入れて読書を復活させました.買ったまま積読(つんどく)になっていた文庫本などの電子版を改めて買い直し,電子ブックリーダーで読み始めています.代表選手は塩野七生ローマ人の物語” です.

これが良いところは,調節可能なフロントライトがついているため,暗めの車内でも楽に字が読めること,字の大きさを自分で好きなように調節できること,その場で複数の辞書を引けること,電子的なしおりやアンダーラインを引けること,そして購入が瞬時に終わることです.私が買った最新機種のディスプレイの解像度はモノクロで 300 dpi あるので,初期のレーザープリンタと同じ細かさです.普通に印刷物を読む感覚で電子インクディスプレイ上で印刷物を読むことができます.液晶と異なって電子インクは消費電力が非常に少ないので,充電の頻度も非常に少なくて済みます.

また,著作権が切れた作品は,青空文庫などの活動によって非常に安価に購入することができますので,たとえば与謝野晶子訳の源氏物語や,吉川栄治訳の三国志などのように,著名な古典を非常に安価に電子書籍として取り込むことができます.

欠点は,電子版の書籍はまだ少量しか出版されていないこと.出版社や著者によっては電子出版に後ろ向きな方々もいます.従って必ずしも自分の読みたい本が電子版で読めるわけではありません.また,文庫や新書は電子ブックリーダーで読むのみちょうど良いのですが,大判の書籍は現在の電子ブックリーダーでは一頁を一画面に収めることはできないため,何らかの工夫が必要となります.もちろん画面を上下左右にスクロールすればよいのですが,その手間はばかになりません.

まだ使い始めたばかりですが,少し経験を積みたいと思います.


さて,簡素に済ませるなどと言って結構長文になってしまいました.昨年も天変地異や国際的な事件など,大きな出来事が続きました.世の中はなかなか平安という具合にはいきませんが,どうにかこうにかやっていこうと思っています.皆様も健康第一で一年をお過ごしください.

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2014/12/01

住宅地の太陽光発電所

私の住む団地の中に,何と二か所も太陽光発電所が建設されてしまいました.それもこれも,FIT という政策のお落とし子なのですが,そのうち一か所はかなり広い家庭菜園だったものを地主が用途変更したもの.もう一か所は斜面の雑木林だったものを,これも地主が用途変更したものです.

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前者は,1,400坪ほどの平坦な土地を細かく区切って近隣の住民が家庭菜園として長年利用してきたものだったのですが,地主が FIT で高収益を得ようと考えたのでしょうか?ある日を境に家庭菜園は無くなり,地面には砕石が敷き詰められ,Canadian Solar (実は中国)製の PV パネルが整然と並べられ,間もなくすると PCS も設置されて系統連系用の電力計柱上変圧器とつながれるのだろうと思います.

後者はもともとは手入れが行き届かない荒れた雑木林だったものですが,こちらも FIT が動機となったのでしょう,斜面はパネルで埋め尽くされ,すでに発電が開始されています.

このような変化をどう考えればよいのか悩むところですが,少なくとも景観は台無しです.殺風景この上ありません.また PV パネルは光をよく反射するので,場所によってはパネルで反射された日光がまぶしく感じることがあるかもしれません.

これまで家庭菜園や雑木林だった場所の植生を文字通り根こそぎ剥ぎとって建設されているので,その分,温度や湿度の緩和効果が失われていることは確実ですし,土壌の劣化も確実に進むことでしょう.まあ,中にはやぶ蚊やその他の害虫が住めなくなって良かったと思う向きがあるかもしれませんが.

ソーラー発電所なので,もちろん昼間は電気を生み出し,その分,火力発電所で燃やす化石燃料とそれから発生する CO2 は減るのですから,環境上のメリットは確かにあります.しかし,それによって失われたものとの差引勘定はどうなるかというと,これは一概には言えないでしょう.

特に,雑木林や農地を用途変更して太陽光発電所に転換する場合には,環境上の目に見えない恩恵,いまだ把握・理解されていないがあり得る恩恵をよく考慮に入れる必要があります.このあたりは環境会計が取り組まなければならない課題であり,すでにある程度研究は進んでいるのかもしれませんが,土地の私有制と用途制限との関係が十分に解決されていない現状では,実効性は望めません.

より本質的には,環境倫理学が問うように,その時々の経済合理性によって所有者が意思決定行う共時的意思決定に対して,長期的・社会的な合理性に基づく通時的意思決定が優先されなければならないのですが,これについては問題意識すら稀薄であるし,意思決定技術としても非常に困難であるため,見通しは明るくありません.

まあ,そんな小難しい理屈をこねなくとも,緑地だったところに殺風景なパネルが並んでしまったので,近隣の住民にとって気持ちの良いことではないことは確かだと思います.

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2013/09/16

景気循環はコックリさんである

景気が良くなったり悪くなったりすることを繰り返すいわゆる "景気循環" はなぜ起こるのか?昔から経済学の主要論点の一つだったと思いますが,基礎的な知識は上記の Wikipedia の記事を読んでいただくこととして,ここでは人間行動学的な視点から一つの仮説を述べてみたいと思います.

私が失業しかかって求職活動をしていた時にお世話になった方から言われたことがあります.当時は日本全体が不動産バブル崩壊の真っただ中だったのですが,その人が言うには,

景気とは,景色の気分なんだよ
というものでした.つまり景色を見て,その景色から感じる気分のようなもの,それが景気だというのです.景色とはすなわち経済活動全般のことなのでしょうが,それを見たときにどのように感じるのか,それが景気だということのようです.

これは非常に主観的な景気の定義なのですが,景気とは本来主観的なものでしょう.景色を見たときに,これからモノがどんどん売れる,だから設備投資をして材料を仕入れて,モノをドンドン作って売りまくるんだ,と感じることが出来れば,これは好景気ということになります.逆に,モノを作っても在庫が増えるばかりなので,これからは材料の仕入れを絞り,工場では人手と生産量を減らして在庫がはけるのを待とうと感じるのであれば,これは不景気ということになります.

非常に重要なことは,この気分を周囲の人たちと共有できるかどうかが景況感を形成できるかどうかにつながり,それが最終的には景気そのものを構成するということではないでしょうか?経済活動に携わっている大部分の人たちが,周囲の人たちの気分を肌で感じながら,これからは景気が良くなりそうだ,だってこの人たちもそう感じて先手を打とうとしているのだから,という気分になれば,それは好景気につながります.逆もまたしかりです.

このとき客観的かつ合理的な判断ができる第三者がいて "いやいやそんなことはない,だってこの経済指標によれば・・・" と言えるのが伝統的な経済学が仮定する "経済人" だったのですが,その仮定には限界があることがわかってきました.私たちは周囲の人たちの判断や行動に影響されやすく,特に,他人に出し抜かれたり置いて行かれることを恐れて付和雷同する一面があります.しかもそれが無意識に行われることも少なくありません.

これが本質的な働きをするゲームがあります.コックリさんです.数人が一枚の硬貨の上に軽く指を乗せて,全員の無意識の合力として硬貨を動かし,あたかも未知のが硬貨を動かして預言を行うかのように思わせるものです.私も小学生のころ,これにハマった女の子たちが預言を聞いては一喜一憂する様子を間近に見たことがあります.(予言ではありません,念のため)

景気の変動もこれに近いのではないでしょうか?巨大な人間集団が動かす経済活動は非常に複雑なネットワークを形成しており,全体が足並みをそろえて特定の方向を向くことは無いと思われますが,その変動の最も本質的な部分は,私たち一人一人が周囲の動向を気にしながら日々行動した結果の合成ベクトルがどちらの方向を向いているかで決定されているはずです.景気循環には様々な周期の変動があることが知られています.在庫や設備投資の循環が変動の基礎的動機になっているとは言え,それを実際に補強し決定づけているのは私たちの気分であると言えるのではないでしょうか?

そういう意味では,景気変動はコックリさんであると言い切ってしまっても,さほど大きな間違いではないように思いますが,いかがでしょうか?

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2012/06/17

はやく殺すかゆっくり殺すか

東日本大震災以降,世界中で,そして特に日本で,エネルギーに関する議論が大変活発になってきました.そのこと自体は大変良いことだと思いますが,いくつか気になることがあります.私なりに気になることを思い切って要約すると以下のようになります.

1. 再生可能エネルギーへの過大な期待
2. 地球温暖化のリスクの過小な評価
3. 人口抑制に関する議論が全く無いこと

まずは再生可能エネルギーへの過大な期待です.最もありがちな誤解は "発電能力" と "実際の発電量" の違いを混同することから来ているように思います.詳細は省略しますが,風車や太陽光パネルの原理的制約のため,これらの発電量はその発電能力の7-8パーセントからせいぜい15パーセントほどです.メガソーラーウィンドファームの紹介記事でお目にかかる発電量とは上記の発電能力であることが多いのですが,実際にはそれよりも一ケタ程度小さな発電量しか得られないことに注意する必要があります.また,パワー密度が低い再生可能エネルギーは広大な設置面積を必要とするので,人口密度が高く土地を高度に利用している日本のような国に向いているとは言えません.

このように考えると,現在の電力需要の全てを再生可能エネルギーで賄うことは非現実的で,せいぜい30パーセント程度ではないかと私は想像します.ちなみに風力発電の最先進国であるデンマークでもまだ20パーセントほどでしかありません.しかも私たちが消費しているエネルギーは電力だけではありません.電力の3-4倍のエネルギーを熱源や動力源として消費しており,それらのほとんどは化石燃料であることもまず知っておく必要があります.

次は地球温暖化のリスクについてです.原子力発電の技術は現在も将来も不完全で,想定される全ての事象に備えることはできません.従って常に放射能漏れのリスクが付きまといます.また高レベル放射性廃棄物を数万年以上も安全に保管することなど,技術的にも経済的にもできるはずがありません.そもそも,今の私たち世代だけの都合で後代にその義務を押し付けることは不道徳であり,世代間倫理の公正さに反します.

では,原子力発電を止めたとして,その穴を埋めるのは何でしょうか?昨今の世論は,それは再生可能エネルギーで可能だろうという雰囲気になっていますが,現実には非常に難しいでしょう.最大限譲って可能だとしても,まだ残りの大部分を賄ってくれている化石燃料のことを忘れています.これまでのように化石燃料を使い続けて良いのでしょうか?ついこの前まで地球温暖化防止の大合唱を行っていた私たちが,これからも石炭や石油や天然ガスを使い続けて良いのでしょうか?

良いわけはありません.原子力と化石燃料は,つまるところはやく殺すかゆっくり殺すかの違いしかありません.目に見えない放射能に怯えるのと同じくらい,何十世代もかかってじわじわと温暖化する気候に生態系と文明を破壊されることにも怯えるべきです.また,原子力と化石燃料のいずれも枯渇型の資源であり,人類が長期間(例えば数十万年)頼ることが出来るエネルギー源でないことは明らかです.

冷徹に原理的に考えると,人類を長期間養えるエネルギー源は再生可能エネルギーしかありません.化石燃料を使い始めるまで人類は知ってか知らずかそうしてきたのです.その大部分は再生可能な牧草を食べる牛馬であり,再生可能な森林から採れる薪や木炭だったのです.それらに加えて現在では風力と太陽光という新たな電力源が使えるようになりました.では,今の人類がそのような文明に移行することは可能でしょうか?

今の人口では全く不可能です.しかし人口を昔のように少なくすれば,日本の場合では江戸時代のようにすれば,何とかなるのではないでしょうか?また,単に昔に戻れば良いということでもありません.社会全体をポスト工業化社会としての新しい農業経済社会に作り替えることも必要です.これまでとは違う価値観や幸福感が社会の基軸に据えられるようになるはずです.そのときの最も重要な理念は "持続可能な文明" でしょう.

最大の課題は私たちの心の持ちようからくる社会の安定性です.人口が徐々に減っていく社会.工業からバイオマスすなわち農林業に重心を移す文明.そのような環境で私たちの精神が健全さを保って長い歴史を乗り切っていけるでしょうか?これは全く未知の問題です.ウランが枯渇し,化石燃料も枯渇していく社会.使えるエネルギーが減るということは食糧生産も減少するということです.紛争や飢餓などの災厄なしに,平和裏に人口を減らしていくことは可能でしょうか?

人口とエネルギー量のバランスだけに話を限ると,300年程度かけてゆっくりと移行すれば不可能ではないでしょう.例えば,人口を毎年0.5パーセントずつ減らしていけば,300年後には元の人口の22パーセントにまで縮小します.この程度になれば,再生可能エネルギーだけで文明社会を維持していけるかもしれません.そして再生可能エネルギーだけで,私たちの遠い祖先がそうしたように,これからも幾度もやってくる氷期や温暖期を乗り越えていかなければならないのです.

人口を減らし再生可能エネルギーだけで成立する文明を築くことが,人類に残された唯一の持続可能な生きる道です.そのことに全く言及しない昨今のエネルギー論は非常に浅薄ですし,文明論としても貧弱です.なにより,文明を維持し続けるのだという覚悟が感じられません.もっと長い時間軸と視座で物事を論じ,あるべき未来から時間をさかのぼって現在の課題を位置づけ,直近の現実的な対策を提案していく,そのような議論が始まることを期待します.

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2012/04/30

「ほとんど有罪」は「無罪」ということ

つい先日,ある政治家の政治資金問題に関する裁判の判決が出ましたが,結果は "無罪" でした.ただし判決文にはいろいろと灰色の部分についても言及があり,完全な清廉潔白とは言い難い判断でした.これを悔しがった原告側が "ほとんど有罪なのに" と言ったらしいのですが,これは論理的に正しい言葉の使い方で,私たち日本人がしばしば陥る "ほとんど" の誤用に至ることがなかった点はさすがは法律家です.

"ほとんど何々である" とは,"何々ではない" と言っているのと同じことです.これを "何々である" と誤解する人が実に多い."ほとんど死にそうになった" とは "死ななかった" ということであり,"ほとんど全員が死亡した" とは "全員は死ななかった" あるいは "死ななかった人がいた" ということです.

これはもちろん論理に白黒をつける二元論の立場であって,中間の灰色を認める定量的な議論になれば,意味は全く異なってきます.しかし,有罪か無罪のいずれであるかを議論する場合には,どんなに "ほとんど" 有罪であっても,それは無罪なのです.

二元論は西洋で発達したので東洋には馴染まないという向きもあるかもしれませんが,東洋でも陰陽思想などは古くからあります.日本はむしろ多様性を認める多元論に馴染みがあるのかもしれません.

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2011/04/09

「想定外」は工学では最も重い罪

今回の東日本大震災では,たくさんの "想定外" の事象は発生したものですから, "起こさないこと" に重点を置き, "起きた時にどう対処するか" を実に本当に考えていなかった結果,深刻な事態が各所で発生しています.

理学の分野では "想定外" は胸躍ることであり,それを常に探し求めることが仕事の重要な一部となります.ニュートン力学が想定していなかったことが次々と発見された19世紀末から20世紀前半にかけて,量子力学特殊相対性理論という新しいパラダイムが構築されていきました.理学にとっては "想定外" は革新のための駆動力であり,想定内のことしか起きないのであれば,そこで学問は停滞してしまいます.

しかし,工学ではそうはいきません.工学はあくまでも実用の学です.私たちが生活する日常空間で,技術的にも経済的にも成立するモノを作り上げ使用していく,というための学問です.基本的な性能を発揮するための "定格条件" がまず想定され,その条件で技術や経済性が成立することが検証されます.その次に行われなければならないのは,"非定格条件" でのモノの振る舞いが,重大な影響を及ぼさないように,さまざまな対策をモノに内包させる,あるいは外部の補機にその機能を付与する,という設計が必要になります.

ここで難しいのは,対策を取る "非定格条件(事象)" の範囲をどこまで拡大するかです.この範囲を広く取りすぎると,対策には莫大なコストがかかり,工学的なモノは設計できなくなります.一方,範囲を狭く取りすぎると,モノの設計寿命内に "想定外" の事象に現実に遭遇し,重大な影響を使用者や外部に与えてしまうことになります.

注意しなければならないのは,非定格条件(事象)を "想定する" ことと,そのための "対策をとる" ことは異なる概念だということです.想像力を働かせれば,想定の範囲はいくらでも広げることができます.しかし,現実にどこまで対策を取るかは,コストを考慮せざるを得ません.従って,工学的にはいくつかのシナリオに分かれます.

  1. 事象を想定し,影響を評価し,対策を取る
  2. 事象を想定し,影響を評価するが,十分な対策は諦める
  3. 事象を想定するが,影響を十分に評価できないため,最大限の安全係数をもって対策とみなす
  4. 事象を想定するが,影響を評価できず,対策も取らない
  5. 事象を想定せず,対策も取らない

このとき,工学で許されるのは(1)(2)(3)までであり,(4)(5)は工学では許されない,と私は考えます.後半の二つは技術者倫理に抵触し,職業上の罪であると思います.特に(5)は最悪の罪で,想像力の欠如,あるいは思考停止,あるいは無能,などという侮蔑的なラベルを張られても仕方がありません.

注意を要するのは(2)の場合です.これは,影響の評価は行うものの,それをわかったうえで十分な対策は諦めるというものです.これは(4)や(5)と同じではないかと思われるかもしれませんが,そうではありません.影響評価を行い,それを社会に公表し,そのうえで社会全体の合意として十分な対策は諦めざるを得ないと決断するものです.これは例えば,恐竜の絶滅を引き起こしたような小惑星の衝突にどう対処するか,というような場合に当てはまるものです.

ここでは例として自動車と原子力発電プラントを考えてみます.

自動車ではどのような "非定格条件(事象)" が想定されているのでしょうか?最も代表的なものは衝突事故です.自動車の設計には,衝突時を想定したさまざまな対策が取られています.搭乗者を直接守るためのシートベルトやエアバッグを筆頭に,ボディ前面の剛性や塑性変形のさせ方の工夫,エンジンなどの重量機器の衝突時の挙動,ドアやピラーやボディ側面の剛性,燃料タンクの配置と強度などなど,おびただしい数の項目が検討され,設計され,そして実際の衝突実験を通して検証されていきます.人体についてはダミーと呼ばれる高価な人形を使って肉体的損傷が評価されます.

そして,この時に最も重要な前提は,時速何km/hまでの全面フルラップあるいはオフセット衝突であれば,どの部分が守られ,どの部分が守られないか,ということが設計時に明らかになっていることです.いかに対策が施されているとはいえ,時速150km/hでコンクリート壁に正面衝突した場合に搭乗者の肉体が損傷を受けないという設計はきわめて稀なはずです.何故でしょうか?それは対策のコストが膨大なものになり,ほとんど誰にも買えない安全装置の塊のような代物になってしまうからです.そのため,このような事故の場合は安全でいられることは諦めてください,という暗黙の前提のもとに自動車は設計され,売られ,買われているわけです.これは上記シナリオのうち(2)に相当します.

では,時速40km/hで対向車とオフセット衝突をした場合はどうでしょう?この場合には,かなりの確率で搭乗者の命が守られる設計になっているはずです.そのためのコストも長年の技術開発のおかげで一般消費者に負担できる程度に抑えられています.私たちは,この前提に大いに期待し依存しているわけです.これは上記シナリオのうち(1)に相当します.

自動車はわかりやすい例です.なぜかというと効用とリスクが明確で,被害についても,効用のためにリスクを取った本人の命と引き換えという単純な関係が保たれるからです.

さて,問題は原子力発電プラントです.原子力プラントが厄介なのは,どんなにわずかな可能性であっても,それが破壊された場合の影響が甚大かつ長期に亘るからです.どこまで "非定格条件(事象)" を拡大すべきでしょうか?効用とリスクの関係はどうなっているのでしょうか?シナリオ(1)が理想であることは当然ですが,では,隕石の衝突まで考慮すべきでしょうか?あるいはテロリストに乗っ取られた旅客機の衝突は?

まず,巨大地震や大津波は当然想定されるべきでしょう.なぜならば,一人の人間の生涯で,これらを経験するのは一度だけとは限らないほど頻度が高いからです.今回の東北地方太平洋沖地震が1,000年に一度しか起きないようなきわめて稀な地震,という見方に私は反対します.この地震の年表をご覧ください.日本の周囲では巨大地震が頻繁に起きています.日本のいずれかの地点で巨大地震が起きる頻度を考えると,少なくとも10年から20年に一度という程度は想定しておくべきと思います.原子力発電プラントの設計寿命は40年程度ですから,稼働期間中に最低2度程度は巨大地震や大津波に遭遇すると考えて対策を取っておくべきです.これが出来ていなかった日本の原子力工学は重大な欠陥を抱えていたと言わざるを得ません.

地震に関する学問も他の学問と同じく日進月歩です.古い時代の地震の痕跡を調査し,被害の規模を推定する分野も進歩しています.これまでに記録や痕跡が残っている最高の津波は1958年にアラスカ南端のリツヤ湾で起きたもので何と高さ520m!尤もこれは津波というよりは水跳ねと言うべきだそうですが,同じ湾で1936年に起きた津波の高さは147mですから,やはりこれはすごい!これらは例外的な地形に基づくものとして除外したとしても,高さが数10mの津波はここ100年のうちに地球上で何度も起きている,という事実を肝に銘じておくべきです.古地震学とでも言うべき分野が発展し,そこから謙虚に教訓を得ていく姿勢が必要となるでしょう.とてつもなく強い自然現象が,実はかなり頻繁に起きているという事実を素直に認めるべきです.

現象の強さ以外に工学的な制約条件として,地震直後に外部電源や非常用発電機が失われ,かつプラントが陸路から孤立して外部からの支援が得られないという想定も,若狭湾の狭隘な海岸地形に立地された原子力プラントでは十分に現実的です.これらはどこまで想定されているのか,大変気になります.

それでは隕石の衝突はどうでしょう?こちらは地震の頻度に比べると桁違いに少ないのですが,それでも起きた場合の影響は評価しておく必要があります.最も最近の隕石の記録は,シベリアで1908年に起きたツングースカ大爆発です.このクラスの爆発が原子力発電プラントの間近で起きると,プラントは完全に破壊され,大量の放射性物質が周囲に飛散すると思われます.このような想定に対しては,上記シナリオのうち(2)または(3)を採用することになるでしょう.隕石が陸地ではなく海洋に落ちるとこれは津波をもたらすはずで,この場合もやはり(2)か(3)を採用せざるを得ないと思います.

隕石の衝突など考えていたらきりがない,それは天が落ちてくるのを心配するのと同じことだ,というのがこれまでの日本の原子力工学の立場だったのですが,しかしつい100年前に,日本からさほど遠くないところでこのようなことが現実に起きたことをどう思っているのでしょう?シナリオ(4)や(5)は隕石の衝突に対しても許されないことだと思います.地球上で発見されている比較的新しい隕石衝突の痕跡だけでもこれだけのものがあります.確かに頻度は非常に小さいのですが,1万年に一度よりは大きいと想定するのが妥当と思います.

また,地球に衝突する可能性のある天体の探索も進んでおり,中にはアポフィスのように,今後100年間の間に数回の衝突可能性を指摘されているものもあります.このような小天体は観測が進むにつれて増えていくはずで,まさに天が落ちてくる心配をしながら対策を打っていく,という姿勢が必要になるはずです.

テロリストによる旅客機の衝突は十分に現実的な想定です.アメリカ同時多発テロ事件でテロリストが原子力プラントを狙わなかったのは不幸中の幸いでした.これは隕石の衝突などよりははるかに高い確率で起こりうる事象なのですが,原子炉格納容器をどの程度のまで耐えられる設計にするのか,難しい問題ではあります.変型版として,例えば北朝鮮からの弾道ミサイルが原子力発電プラントに照準を定められている場合なども考えられます.

このように考えを進めていくと,日本の原子力工学や原子力行政がいかに狭い範囲に限定して "想定" を行ってきたかがわかる一方,シナリオ(2)を取らざるを得ない場合も多く,社会的合意をどのようにとっていけばよいのか,試行錯誤が必要な課題も多いと気づかされます.いずれにせよ,効用とリスクを天秤にかけた場合,万全の対策というのはあり得ず,必ずリスクをはらんでいるということを,行政当局は周知させる必要がありますし,市民の側にも覚悟が求められることは明らかです.

市民の側に覚悟ができない場合には,エネルギーをふんだんに利用できるという現代文明の効用を諦めるという別の覚悟が必要になり,再生可能エネルギーと,地球温暖化に影響しない程度の最小限の化石燃料によるエネルギーだけで成り立つ文明を築き直す覚悟が求められます.私自身にはその覚悟がありますが,世界全体にその覚悟が出来るかについては非常に悲観的です.なにしろ人口を現在の数分の一に減らし,森林からの木質エネルギーと,有機農法で成立する農業社会が基本になりますので.そこまで立ち返る覚悟があるかと.

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2011/03/14

日本の原発は設計でも運用でもなく「想定」が間違っていた

福島第一原子力発電所 (1F) で緊急事態が続いています.東北太平洋沖地震により原子炉を緊急停止するシステム (SCRAM) は働いたものの,炉心の余熱と放射性物質の崩壊熱を緊急に冷却するシステム (ECCS) のうち,特にその電源となる非常用ディーゼル発電機が津波で全て損傷し動作不能になりました.これが痛かった.注水系が動作しなかったため余熱冷却を行うことが出来ませんでした.その結果,一次冷却水の気化が進み,水の一部は分解されて水素と酸素が発生,圧力緩和のために止む無く格納容器外に放出したガスが爆発を起こしました.

これ以上の災害を防ぐために,大急ぎで運び込んだ外部の電源とポンプを使って海水を圧入して,ようやく安定させることに成功した模様です.ただし海水圧入により廃炉は決定的.これが 1F の1号炉 (1F1) と3号炉 (1F3) です.

2号炉 (1F2) もこれと同様の経緯を辿っており,炉心に冷却水がほとんどなくなり,マスコミによれば "空焚き状態" と言われていますが,これは不正確な言い方でしょう.チェルノブイリとは異なり核分裂反応は止まっているはずで,余熱の冷却ができなくて燃料棒が溶融しているという状況です.圧力が限界まで上がると,どこにもリリーフ弁が無ければ格納容器のどこかが破壊されてガスが放出されます.そうなると高濃度の放射性ガスが排出されることになります.そのためにガスを放出して圧力を下げ,海水を圧入して温度を下げようとしています.

さて,今回の事態を招いた根本的な原因は何でしょう?

まずは設計思想が甘すぎました.日本ではスリーマイル島のような過酷事故は起きないと考えられてきたそうで,幾重にもなった安全対策は軽視される傾向にあったそうです.

しかし,私は設計以前の想定が根本的に間違っていたと思います.まずは地震の規模.次いで,海岸立地につきものの波浪や津波に対する想定の甘さです.特に津波の想定が甘すぎました.想定された津波の高さはわずか5mだったそうですから,これは素人考えでも甘いだろうと考えざるを得ません.このため,非常用発電機の全てが損傷し,緊急時の頼みの綱が断ち切られたのです.想定が間違っていれば,当然設計も不十分なものとなり,運用もそれなりのレベルに低下します.

想定を誤らないようにするにはどうすればよいか?これは工学としてはなかなか難しい問題です.現象の強度と頻度の関係をどのように想定すればよいのか,明確な指導原理はありません.安全率をむやみに高くすると,設計そのものが成り立たなくなり,非常に高コストの技術となってしまいます.一方,甘い想定をすると,滅多に(設計寿命内では事実上)起きないはずの現象に実際に遭遇してしまいます.今回の地震は1,000年に一度という規模だったと言われていますが,これとてどこまで本当か疑ってかかるべきです.自然界の現象の強度と頻度の関係はべき分布に従うものが多いので,とてつもなく強い現象が,実はかなり頻繁に起こる,ということはもっと知られるべきです.

べき分布の別の言い方として,大富豪は実はかなり沢山いる,という言い方もあります.これは経済物理学の成果です.

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